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June 2, 2004
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<奉仕の均衡>

両思いの先のもう一つの過程「精神的な双方の歩み寄り」はその恋愛を深い深い愛の絆に変えていくのに重要な要素であるのは間違いないが、さてはて、一体それはどういうことなんだろう、とちょっと掘り下げて書いてみたいと思う。

例えば、さわりの恋愛を楽しんでいた頃、相手から「ね、ちょっと食事行こうよ!何食べたい?」と聞かれて「お勧めの店・・・」とか答えたりとかそんな感じの会話を持ったりしなかっただろうか。それって、「XXと食事に行って話したい!こんなとこ連れて行ってあげたい!」という気持ちと「誘ってくれたんだからどこ連れて行ってくれるか何か考えがあるのかな?!」とかそんな相手のことをお互いで推測するような、いい意味で相手を思いやるような気持ちのやり取りが背後にあったりしなかっただろうか。

そんな背後にある相手を思う気持ち。

単純だけど、これが全てでこれの延長が「愛」の始まりだと私は思う。しかし、恋愛の過程において、それはあくまでも「推測」の世界になりがちだったりする。言葉にするのもちょっと恥ずかしいし、そんなに自分をさらけ出すのも相手に遠慮したいし・・・。そんな風に例え推測でもこれが「さわり」の部分で相手を思う気持ちが推測できる範囲であれば、その双方の精神的な歩み寄りは成立する。したがって「さわりの恋愛」はそういう推測範囲での相手への思いやりで成立する。

これがロングタイムリレーションシップになると、相手への思いやりなどは推測の範囲を超えてしまう。お互い環境も性格も違った他人同士、推測だけで意思疎通が完全にできるわけではない。付き合いが長くなればなるほど、推測をすることに疲れてさじをなげるか、推測をしつづけるか、もしくは推測などはもう止めて思っていることをはっきり言うか、どれかの選択が起こることになる。

感情や愛情表現が上手くない人の場合、全てを推測で、そして相手にも推測してもらうことを期待する場合が多い。(特にこれが日本の文化だったりするが)それがただ「好き」とかそんな言葉でさえも口には出さないのでなんとなく一緒にいることで相手に気持ちを訴えたり、そしてまた相手も「まぁ、きっとそういうことなんだろうな?!」とお互い不確かな推測が続いていく。相手が自分に適した人であれば、その推測だけでも関係は長続きすることができるだろうし、別に言葉に出さなくてもさりげない行動で思いやりや気持ちを伝えられる人だっている。

逆に推測を止めて、はっきり気持ちを伝えたり意見を言ったりするようにお互いがなると喧嘩は非常に多くなりがちだが(はっきり言うことで意見の違いが明確になるときもしばしば)、もし相手を理解し合おうという気持ちがきちんとあれば二人の間にあるもやもやは即効に解決することができる。ただ意見が違う時だけではなくて、喜怒哀楽も口に出す事で気持ちを共有できるし、その数が多ければ多いほど二人の共有物が増えて相手が何に対して喜怒哀楽を示すか、自分にも分かるようになってくる。

どちらにしても上に書いたようなロングタイムリレーションシップが成立する為にはいつでもお互いが「相手を思う気持ち」を持ち続けていることが必要不可欠である。

「推測し続ける」または「はっきり言う」ことで二人の関係が成立できず、それに付随して「相手を思う気持ち」を失ってしまうと結局「推測する事にさじを投げる」ことになる。相手の思っていることが全くわからないし、相手がうれしいのか悲しいのかもわからないし、何をしたって反応がない。そうなってくると慌てて気持ちを聞いてももう相手には答えてもらえず、そして悪循環なものでこちらも何ももう言う気は起こらない。気持ちが通じ合う、という両思いになった時の気持ちがもう起こらない。相手の気持ちを知る事ができない分、相手を思う気持ちが薄れていき、次第にはなくなり、お互いのリレーションシップが成立しなくなる。

そこで、「相手を思う気持ち」とは何かというとそれは、相手に対していかに自分を献身できるかという「相手に対する奉仕」であったりする。「相手を思う気持ち」を失う、ということは「相手に対する奉仕」を放棄する、ということにつながっていると思う。

そもそもこれは生まれた自分の家庭環境や性格にも大きく反映してくるのだがもともと人に「奉仕」をすることが得意な人、そうでない人がいると思う。相手の為に何かしてあげよう、とか自分の得には成らないけれども相手の為に何かできることをしてあげよう、とそんな行動のことで、これは自分の今までの生き方にも深く影響している。家族や友人、周りの人に「奉仕」されて生きていると自分自身も「奉仕」することに何の抵抗もないが、そうでない環境にいると自分が自分自身だけに奉仕することに慣れすぎて他人に奉仕することはできなかったりする。そして、その要素は「愛」の絆を深められるか、深められないかに大きく影響すると思う。

もう一度「さわりの恋愛」に話を戻すが、あの出会ってどきどき!とかはっ!としたその瞬間、それ以上の関係が可能でも可能でなくても「あの人のことをもっと知りたい!」とか「振り向いてもらいたい!」という気持ちが発生して、その時初めて「自分」だけでなくて自分以外の「相手」に対して気持ちが動く。このスタート地点に置いて自分がどうのこうの、と自分の損得を考えている人は殆んどいないと思う。

そしてその経過がなんとなく上手くいって、思いを寄せた相手に何か自分の為にしてもらった瞬間(例えばそれがプレゼントだったり食事の誘いだったり)、あぁうれしい!と誰もが思うに違いない。そしてその相手の為にこちらからも何かしようと思う、そんな気持ち。ここで双方の「奉仕の均衡」が保たれていることになる。さわりでもお互いの恋愛関係が成立していることになり、相手に気持ちがざーーーーーっと惹かれていって、上手くいけばのめりこんで、幸せな時間を過ごす事ができる。なぜなら、全てが相手の為に、と自分の身を投げ打つことができるからだ。そしてそんな時間が、恋愛の醍醐味だ。

これがまた長い付き合いになってくるともうちょっとお互いの生活観に対する「現実」のようなものが見えてくる。そこで、きちんと「精神的な双方の歩み寄り」を常に図っているとその「現実」に対しても相手に対する「奉仕」ができるようになる。例えば相手がXXという音楽が好きだったとしたらそのコンサートに連れて行ってあげるとか、XXというブランドの洗剤が好きだから買い物の時にはそのブランドをわざわざ選んであげるとか、肉が好きだから肉料理をよくおかずに作ってあげるとか、細かい事だけれどもそんなことである。これは「セックス」に対しても同じことが言えたりする。意思疎通をきちんと図って、相手が喜ぶセックスをお互いに奉仕することだってできる。そしてその「相手が喜ぶ」ということに自分の喜びを見出せる関係になる。

このお互いの「奉仕」の度合いがイコールである限り、二人の愛はほぼ永遠に成立するのではないか、と思う。

片方だけでなくてお互いが同じ「奉仕の均衡」を保っていることが大切である。その奉仕の度合いが大きい少ないに関わらず同じベクトルで均衡を保っているべきで、片方だけ奉仕の度合いが大きいと間違いなく片方に負担になって崩れていくし、相手にとって負担だとかうざいだと思われたりとか、また逆にその奉仕に依存しすぎてそのありがたさを見出せないとか、そんな現象が起こりがちである。

そして「奉仕の均衡」は片方が奉仕をした時に相手が喜んでいるという気持ちを知る事ができる、いわば「奉仕=相手の喜び」ということを確信しつづける事で保つ事ができる。それを確信する手段として、先述した「推測」や「はっきり言う」が必要な要素となってくるわけで、「精神的な双方の歩み寄り」を成立させていくことができるのだ。

そして恋愛とはまた違う次元ではあるが、この奉仕の原則はパートナーだけでなくて、家族や子供、友人との信頼関係、それらに対しても適用することができる。


<一人の人を愛し続けるということ>

さてここまで、さわりの恋愛とロングタイムリレーションシップの愛を成立させる為の要素について述べてきたけれども、実際一人の人をずーっと愛しつづけるというのはどういうことなんだろう。

現実に一人の人とずーっといると、最初の出会いはどうであれ、どきどき、というさわりの恋愛の感覚はそのパートナーに対して無くなっていくのは事実である。どきどきするには相手の事を知りすぎているし、セックスもマンネリ化するし、喧嘩はいっぱいするし、新しいことはあんまりない。

でもこれはさわりの恋愛が「愛」の全てだと思っている場合である。

別の次元で言い換えてみると現実に一人の人とずーっといると、最初の出会いはどうであれ、何年経ってもそのパートナーと思いが通じ合った時のどきどきを思い出すことができるし、相手に奉仕し、奉仕されて、お互いが喜んでいく姿を見ていくことに最高の喜びと感謝を見出すことができるし、セックスはちょっと飽きるけど(笑)他の人と寝るよりも断然安心するし、喧嘩をして頭に来るけれども言いたい事を言い合ってすっきりするし、お互いの信頼関係が完全に築きあがるとその「安心感」というものはその人個人にとっての揺ぎ無いパワーになる。これは自分で自分の為に奉仕し続け生きてきた感覚では絶対得られないものである。

相手に奉仕し続け、され続けて生まれるパワーは一見、自分の得にならないように感じるけれども(実際に自分のことだけでなく相手の事も考えて行動しなくてはならないから勉強とかはかどらないし自由に旅行などの行動ができないとか・・・まぁこれもお互いの意思疎通を図っていれば問題ないことではあるが)そこで築かれた「安心感」が結局各々の生活に対する意欲をぐっとあげることができて、意識を思いっきり向上させることができたりする。そして何よりも、その安心感は自分の生活に「感謝の気持ち」を産む。そしてその感謝の気持ちは結局、その人との間に育まれた「愛」に対するものなんだ!と気付くのである。

パートナーとの「愛」が自分に安心感と感謝の気持ちをもたらす。
そしてそれに気付くと、またパートナーを同じ様に愛することができる。
それは相手に奉仕し、されることでお互いの喜びを見出す関係であり、相手が喜んでいるのだと確信できる関係である。
そして自分と相手の生活に対する意欲がぐっとあがる。

***

さわりの恋愛のようなどきどきはないけれども一人の人を愛することは(そしてそれが成功するのであれば)それ以上に楽しく心強い事であると思うし、また別にさわりの恋愛ほど毎日がどきどきして楽しい事はない。全ては個人の性格や趣、環境、経験に寄るけれども恋愛も愛も、人生において重要な要素であり、また素晴らしい思い出である。沢山の人はそれで大変安定したり、または、その恋愛・愛という関係で人生を苦しむ事になったり辛い思い出を増やす事もあると思う。しかし一旦仕組みに気付くと、自分に合ったパートナーを選ぶのにもそれほど苦労をしなくなるし、ぐっと長続きする事ができる。

そのパートナーとの毎日の中でちょっとした冗談やいたずら、そんなかわいいことも二人の関係には必要不可欠なことであるし、そんな恋愛したての最初の頃の気持ちを持ちつづけることが、またはもっと時代をさかのぼって子供の頃のように素直になって喜怒哀楽をさらっと伝えつづけたりすることが、恋愛・愛の二人の関係を長く楽しく続ける要素であることも忘れないようにしたい。何事もそうであるが、最初の時の気持ちを持ちつづけることが、いつでも新鮮な関係を生んでいくのだと思う。





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Last updated  June 4, 2004 03:06:39 PM
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