うちの旦那は次の仕事が決まったがあれからすぐ辞めようという態度は全くなく、一件だけでも仕事が取れてから辞められるようまだあの営業の会社で頑張っている。
これは私が助言したことでもなく本人が決めたことで、意外に感心した。とにかく思うことを頑張りなさい、と応援。私が友達のことでうろたえているので彼のこういう自信を持った行為っていうのは安心感を与えてくれる。それでいい。
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私達が頑張ることで彼らもいい方向に導くことができるんじゃないか、とお互いの幸せを願っていた友達夫婦がいた。
うちの旦那の就職が決まった日、奥さんは泣いて喜んでくれた。大きな達成感があった。
しかし彼らはそのニュースの後の夜中、別れることになった。
それはきっと就職が決まったのと同じくらいのいいことに値するいい結果であったのだと分かってはいるし、私達が頑張ったからこそ彼らに最高の結果が来たのだと信じているのだけれど。
悲しい。
彼女の気持ちを思うと悲しくて悲しくて、何も出来ない自分がまた悲しくて、気持ちが堂々巡りしている。
私の旦那は「こういうときこそ友達の僕らが元気でいなきゃいけないんだよ。」と励す。だから彼は気丈に頑張っているのかもしれない。
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人間はおもしろいのだ。誠実や不誠実などの言葉は単に言葉だけであって目に見えないし、測りどころがないようなものに思えるだろう?
しかしそれは違う。
二人は別れた。100歩譲って喧嘩両成敗と言うことにしてみよう。
奥さんは人を大切にし精一杯愛情を尽くせる人だ。そして意志がしっかりしていて、頑張れる。
旦那さんは無口で、はっきりしないところが優しさだと思っている人だ。意志がないから誰にも掴み所が無いと思われている。
別れて、私は奥さんの気持ちを思って泣いた。私の旦那は彼女が彼の荷物を詰めるのも手伝ったし、運ぶのも手伝った。彼女を知る他の友達も彼女を心配し、幸せを願った。
旦那さんはうちの旦那に「別れて家をでることになりました~」と電話したが「じゃ~家においでよ」とは言われなかった。学会のコネで居候先を一つ見つけて移動したが、相手にも彼の問題に大して「他人ですから」と言われた。
その違いはあまりにも分かりやすくないだろうか?
人生の結末と言うのはこういうことの繰り返しで迎えるものなのだと思う。何が「幸せ」であるのか判断は本人次第なのだが、年老いて弱った時に、 「死」というものに対する恐怖に直面した時に、人が求めるものは何なのだろうかと考えるとそれは人々に「幸せ」を望まれることなのではないか、私はそんな気がするのだ。
(ミクシィ日記よりコピー)