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テーマ:暮らしを楽しむ(388612)
カテゴリ:恋・愛・人間関係と心理について
先週久々に会えた友達と色々話していたのだが、その中で「屈辱」が自分の原動力、という話になった。彼は日本で既に博士号を取っているにも係らずこちらでも大変な学校生活を送り(これにも話したいことは色々あるが取りあえず飛ばす)4年のレジデントもようやく終わりが近づき、白人社会の中で揉まれに揉まれて就職を最近決めた、努力、根気、意志の強さ、頭の良さ、を備えたある意味アメリカ生活の成功者だ。ビザのこともあるからまだまだ問題は山積みだが、彼ならきっと自分の望む方向に道は開けるのだろう。
「屈辱」というのは自分の自信のなさ、その人の性格の良し悪しが災いして、その人相応のものを他人から受けるものだと、私は思う。私は私なりの器に値する大変な屈辱をアメリカに来てから受けたし、彼は彼なりの器に値する相当な屈辱を受けた。お互い、今の苦しみながらでも着実に進んでいる自分というのはその受けた屈辱から築きあげているといっても過言ではない。 (もちろん苦しみもだえている時をかげながら支えるパートナー、日本の家族、友達、などを忘れてはいけない。どんなステップでも揺ぎ無い安定が側にあるからこそ次がある) *** こうやって屈辱を原動力にして次に進むのは良い意味で人間の生き方の基本であると思うが、時々同じ殻から抜け出せない人々がいる。分かりやすい例を出せば先日のうちの旦那だ。引っかかるのはいつも同じところ「あいつは俺を白い目で見てる…」「あの人は俺を出来ないと思っているに違いない…」つらつら文句を並べて同じところに留まっている。そんな人のことだ。 これはどういうことか。 同じ殻で留まっている人は自分に対する「屈辱」を認められないでいる、と私は思う。自分に甘いと相手の自分の評価がどんなに悪くても冗談に聞こえる。相手は本気でこちらのことをばかにしている。しかし相手の言っていることが本気だと思えないから、ついつい相手のせいにして終わらせる。 「屈辱」というのはどんなに理不尽なものでも受ける側の気合次第でレベルが変わる。本当にこんなものは耐えられん、と受け入れた時、その時点では大変な苦痛で気が狂いそうになるが、その相手に執着しないで次の自分を信じて前に進むことが出来る。だから、屈辱を与えている相手にもちろん腹は立つが、その相手を非難するだけに執着してしまったら新しい道は絶対開けてこないのだ。 相手は変わらない。自分がその相手を放って次に進むしかない。毅然とした態度で相手に接すると必ず向こうが折れる。そこで自分は屈辱した相手を克服したことになる。 それは私の経験でもあるし、多分間違いない。屈辱はしっかり気付いて受け止めて、強い態度で流していくしかない。次に進まねば。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 8, 2007 11:26:31 PM
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