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カテゴリ:プロレス
~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第5回 勝手な因縁 第1037回 2008年10月4日 祖父長吉の永眠 僕の祖父長吉が最後に観たテレビが、全日本プロレス中継・チャンピオンカーニバル「馬場対鶴田戦」だった。 「鶴田は将来プロレス界を背負って立つ奴だ」 長吉の最後のメッセージとなった。 そして翌朝容態が悪化して舟山病院へ入院した。 1977年6月19日、祖父長吉が病死する。享年73歳だった。 お棺には発売直後の月刊プロレスを入れる。あのがチャンピオンカーニバル「馬場対鶴田戦」が掲載されていたからだ。 それから全日本旗上げ興行の時もらったカレンダーも入れた。 みちのくはじめとの因縁? 1978年、トーアカマタが国際プロレスから全日本プロレスに移籍した初のシリーズが米沢で行われた。 5月13日のことである。 翌日秋田では馬場さんが持つPWFヘビー級タイトルに、いきなりカマタが挑戦する異例のタイトルマッチだ。 カマタの試合を、ドアの向こうから観ている馬場さんが印象的だった。 カマタは巨体に似合わぬドロップキックを放す。 会場はウァーと歓喜がおこる。 すると馬場さんはドアを閉めた。 ジャイアント馬場は、D・マラビアとシングルマッチで対戦し快勝した。 この時の馬場さんは頭髪を伸ばし、パーマをかけていた。 動きがよくない。 会場からは、 「社長は疲れているから本気で攻めるなよ~」 と、野次が飛ぶ。 確かにこの時の馬場さんは腰痛がひどい時期だった。秋田では馬場さんは王座をカマタに譲ることになる。 僕もまた、この時ギックリ腰に悩んでいた。 「馬場さんと同じだ!」 密かに思った。 また、僕は結膜炎で目医者にもかかっていた。 一方、外人選手の一人マリオ・ミラノが結膜炎にかかっていたため、ジャンボ鶴田をはじめ多くの選手が結膜炎にかかってしまった。 「全日本のみんなと同じだ!?」 ふたつの病に僕は何か浅からぬ因縁を感じた。 (イラスト・ジャイアント馬場の横顔) ~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第5回 勝手な因縁 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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