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カテゴリ:プロレス
~僕と馬場さんの勝手な連帯~ ●第9回 ジャイアント馬場引退試合 第1045回 2008年11月4日 1999年5・2東京ドーム観戦記 1999年5月2日、朝7時1分の山形新幹線つばさに乗り米沢(山形県)を出発、10時前には東京ドームに到着した。各所にグッズ売場があり、山下書店前では馬場写真集が山と詰まれて呼び込みをしていた。 大阪から来たというアルバイターをしている青年と並びながら全盛期の馬場さんの話をする。 「父から聞いたことがあります」とその青年は言う。 この日はジャイアント馬場の引退試合だった。 この年、1月31日に大腸がんが原因でジャイアント馬場さんは亡くなっていた。61歳だった。 当人が居ない東京ドームで「ジャイアント馬場引退記念興行」が行われることになった。 会場に入り、席に着くと次々の客が入ってくる。 一席隣の青年に話かける。出身は青森であることや初めての観戦であることを教えてくれた。 「青森だったらカシンや船木の出身でしょう」 しばらくすると隣の席にも青年が来る。その青年はタレントだとい。いつの間にか3人は仲良く観戦する。 12時に開場になるが客足は遅く、午後2時の第1試合ぎりぎりになってようやく満員状態となる。 第1試合の菊池の表情が頼もしい。馳やライガーとタッグを組み、三沢、小川組と戦わせてみたいものだ。 菊池が場外にいってマイクを取り出してから頭突き攻撃をする。 「ゴン、ゴン」と頭がぶつかり合う音が会場に聞こえた。 なるほど、ドームは広すぎて音がほとんど聞こえないことに気付いた。音量効果が必要だ。 サスケが入場するときにIWGPベルトを肩に担いで来たときは会場から「オー」と歓喜?が上がった。誰もが期待と不安の全日本プロレス開国予告なのか。 サスケ、タイガー、ハヤブサらは完全に「開国」を意識しての試合であり、それを十分に受けて次に結び付けようとしている小川に意気と責任を感じた。恒原、モスマンの得意業も格闘技系で生きていたが、小川とサスケはしっかりとプロレスをしていた。 川田と馳戦はハラハラドキドキの試合だった。お互いに受け身が取れにくそうで、危ない箇所がたくさんあった。二人共ブランクのためか試合慣れをしていないためなのか、不安だらけの試合だった。次回はお互いにコンデションを良くして臨んでいただきたい。 三冠ヘビー級はこれでもか、これでもかという「全日本の社長への踏み絵」ともいうべき試合であった。 次期社長最右翼の三沢光晴に巨漢ベイダーがチャレンジする。普段タイトルマッチであればいつフォールされてもおかしくないない試合なのに、短時間で大ワザを連発し、しかもフォールになかなか行かないのには驚いた。ベーダーも馬場元子さんら首脳部から使命を請けての戦いのような感じがしたのは僕だけだろうか。 この苦しみに絶えぬいた三沢にエールをおくると共に、新生三沢体制の全日本の門出はたいへんなアツレキがあることを感じられる。 馬場引退試合は、ただただ涙、涙の連続だった。 「レフリーはジョー樋口がいいね」と、隣の青年と話していたら、希望どおりに樋口さんがレフリーだった。 僕が小学校、中学校の時に「プロレスアワー」で観た名試合が特設画面に写しだされる。すべてが日本プロレス時代の映像だ。このリングにドリーファンクJRが第2代PWF会長として立ってもらいたかったのが僕の願いでもあった。 この試合にはきっとリングサイド席にもう一つの放送席があったに違いない。それは故人となった日本テレビ清水アナウンサー、解説山田隆さんの席である。もう一つの実況中継がきっと行われていたのではないだろうか。 僕はお別れのゴングがなると、馬場さんに問うた。 「馬場さん。他からの攻撃をどう受けたらいいのですか?」 テンゴングがなる。 「攻撃を受けるのではなく、独自にきり開け」と、ジャイアント馬場が僕の心に呼びかけてきた。 ありがとうジャイアント馬場。 さようならジャイアント馬場―。(おわり) 事実経過に基づいて描いておりますが、ご本人や関係者の名誉のためにも、登場人物のの心理や考えは作者の想像の範囲であることをお断りしておきます。 (イラスト:ジャイアント馬場対大木金太郎戦 当時の週刊ファイトに掲載されました) ~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第9回 ジャイアント馬場引退試合 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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