エコバック...風呂敷
昭和30年代、小学生のころは母と姉弟で買い物に行っていた。
下関に住んでいるころは、長門町市場までの丘を幾つも越えて歩いて行っていた、丸山町から日和山.茶山町.長崎町を下って長門市場に...。
帰りはそれぞれが野菜や魚の入った風呂敷を持たされて、来た道を登ったり下って家路を戻っていきました。懐かしい昭和の記憶です。
(旧)国鉄下関駅付近の高架橋の下を戦後まもなくからの、闇市から韓国の人たちも一緒になって大きな市場ができていた。竹崎町のその辺り数百メ-トルは市内の市民はほとんどの人たちが買い物に行ってたと思うほど、いつも大勢の人が風呂敷を下げて買い物から帰っていった。
北浦の漁村のおばちゃんたちは乾物を大きな風呂敷に包んで肩にかけて胸元で結び、それが幾つも大小の包みを小さな体にくくりつけて運んできていた。
それを道端に広げて新鮮なわかめや、いりこなどをうっていた。
魚を売るおばちゃんは、みかん箱くらいのかんかんを肩から提げて道端で広げて売っていた。北浦からの電車には魚を売るおばちゃんたちの集団を当時は「カンカン部隊」と呼んでいた。
唐戸市場は当時は一般は入れなくて、現在のようになったのは、観光に欲が出たからです。いかにも清潔で新鮮ですよといってます。
ともかく長門市場は、何でもそろう何でも市場だった。
シ-モ-ルが出来て市街地の区画整理が始まりくさい汚い市場は撤去されて、コンクリ-トとサッシで綺麗な街「グリ-ンモ-ル」と呼ばれるようになった。
そのころには、私は嫁に行き、転勤で徳山に住んでいた。
懐かしい時代です、みんなが死にもの狂いで働いて豊かな生活を、夢描いていたころです。
ここ数年の物価高騰と、環境改善、地球温暖化に歯止めをしようと、遅すぎる手段で、よそら事のようにTVは騒いでいる。
30数年前に、県の出先機関に臨時職に入っていたときから言われてきていた。
農業に関わる機関は予測していたのにだれも気にしていなかった。
遅すぎるエコブ-ム。
何もなかった時代を思い出している私です。
粗品でもらった大きなエコバック結構邪魔です。
思い出して風呂敷を使ってみた。
沢山買い物をしない私には便利です。
エコエネルギ-「ほうきと新聞紙」
これはまだ掃除機の普及が少なかったころ、ほうきが主流の時代でした。
ほこりが舞わないように、番茶の茶がらを履く前にまいてお茶の葉を転がすように、部屋の隅から掃き掃除をしていた。
時には新聞紙をちぎって水に浸して良く絞って、撒いていた。
今の我が家には、猫が全部で5匹が出入りをしている。
季節の変わり目、衣替えです。
毎日座布団が出来るほどふわふわと抜け落ちています。
猫アレルギ-でなくてもし死にそうなくらいです。
特に野良猫だった雪雄.小雪.吹雪は白猫です。
掃除機で....と思うでしょうが、排出する風が返って巻き上げますから、時間がたつと余計散らかっています。
そうだそうだと、昔をおもいだしました。
一日分の新聞紙を浸して、よく絞って二階の階段からそろそろとはき落とし、リビング、玄関、たたきと一巡すると新聞紙はころころ丸くなって猫の毛をキャッチしています。
手も汚すこともなく、雑巾で拭くように水もいらなくて、汚れた新聞紙はごみ袋にぽいと捨てればいいのです。
動物を飼うのは大変です。
可愛いと思う以上に、努力と忍耐で清潔な人間社会になじませないといけません。 人が病気になってしまったら猫たちだってかわいそうだからね。