『行政のたらい回し』『一時保留』が続くなら、少年は疎か第三者が苦労するだけ
神戸で起きた『サカキバラ』事件が引き金となって少年法が改正されたのは周知の事実。確かに事件の内容をみれば、16歳という年齢であっても刑事責任を追及されるのは当然だが、その16歳から更に引下げて14歳にしても、結果的にはそれが抑止力にならなかったばかりか、ますます犯罪の質を悪くするだけになってしまった。今回の事件で補導されたのは、その14歳から更に下がった『12歳の少年』。事件の質は先述のものと同等、或いはそれ以上だといえるだろう。数日前までランドセルを背負っていた子供が、我を失ったばかりか人殺しまでやっていたのだ。神戸の事件も今回の事件にも少年の「性衝動(行動)」に問題があったと指摘しているが、12歳の子供に同等のものが現れたという事は、それだけ成長が早くなっているのと同時に、実体験や経験談のないストレートな情報が簡単に入手できる様になったといえるだろう。況して少年は一人っ子であり鍵っ子だった。また過保護な環境が人格形成に影響を及ぼしていたという指摘があった様に、赤の他人との付き合いができない状態では情報の詳細と経験に触れる事ができない。ただただ『頭でっかち』になるだけで、いざ行動した時の衝撃は普通の人よりも大きいし、そこに快楽を求めてしまったら止まる術を知らない。関与を仄めかしているという別の幼児に対する行為などは、それがエスカレートした事の裏付けだったといえるだろう。 ジャーナリストの鳥越俊太郎が朝の番組で精通(男子が初めて射精する事)の大切さを説いていたが、精通が何によって齎されたかは、その後の人生に大きな影響を与える。一般的には異性の(裸を含めた)身体だったり夢精などによるが、それらとは明らかに掛け離れたものによって精通を迎えると、それを否定したり正したりする場所や人物が存在しない限り、それが当たり前だと思ってしまう。一人っ子で鍵っ子で周囲との協調ができない環境に育てば、歪な捉え方をするのは避けられない。いったい少年は小学生の頃にどんな性教育を受けてきたのだろう。とも思う。日本は性に関する事をタブー視するか、妙に突飛になるかのどちらかしかない。況して基礎の部分(意味や責任)が満足に教えられず、巷に溢れる枝葉(情報&実技)ばかりが先行してくる。人間は快楽に対しては特に大きくて厳しい責任を負う様になっている。セックスにしてもそうだし麻薬にしてもそうだ。誰かが最初に正しい教えを植え付けておかなければ暴走するのだ。その役割は学校だけではない。家庭に中でも行われていなければならないものである。 今回の事件で補導された少年は、家庭裁判所において今後の処遇が決まる事になっている。その中で最も有力視されているのが『自立支援施設への入所』であるが、現実には有力視というよりは消去法で最後に施設が残ったとしかいえない。然し乍らその最後のものでさえ100%適合していないのである。現時点では『行政のたらい回し』『(何らかの動きがあるまでは)一時保留』の状態である。先述の様に少年法改正などで対応策は立ててきたとはいえ、それ以外の部分の不備は否めないし、大事なものとはいえ変に人権や法律を意識しているから偏った仕組みにしかなっていない。これではいくら本人に更正を促したところで実現は難しいし、大阪・池田で起きた連続児童殺傷事件で逮捕された宅間被告の様な自暴自棄の人間を作り出すだけなのだ。勿論受け入れる側も迷惑この上ないだろう。本来自立支援施設というものは家庭環境に問題があった子供たちが社会復帰を目指す為に必要とされるものである。大罪を犯した者、性癖に問題がある者を更正させる場所ではない。もし仮に少年が自立支援施設で過ごす事となれば(本来の性格による)周囲との協調は図れないし、性癖に問題があるのだから第三者に新たな被害が生まれる可能性もある。やっと社会復帰の為の心構えが出来上がろうとしている矢先にペースを乱されてしまっては堪らない。もし少年が今度は殺害される事になったとしたら、国はどう責任を取るのだろうか? やはり法律の枠を超えて、時と場合によっては例外もある得るという図式が必要ではないだろうか。犯罪防止や抑制を国民のモラルや常識に訴えても限界があるのは明らかだ。況して悪用する連中が後を絶たないのだから余計である。大人だろうが子供だろうが状況によっては同等に扱う場合がある……酷な話かもしれないが、誰かが一方的に不利を強いられる現実というのは間違っている。