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カテゴリ:Movie
日本では、「睡眠薬を過剰摂取したと見られる」で片付けられてしまった感のあるヒースの死因だが、アメリカのメディアではまだまだ引っ張られている。
毒物検査を行ったにもかかわらず、原因はいまだ不明で、一部には死に至るほどの毒物が体内から検出されなかったため、「自然死の可能性もある」と書いているメディアもあった。 26日付けFOXnews.comによると、ヒースの葬儀の詳細は、まだ明らかにされていないという。また、オーストラリアの外務大臣が、遺体を母国に搬送する際には、要請があればオーストラリア政府が全面支援すると話したらしい。国賓級の扱いだ。オーストラリアに帰ったら、また大変な騒ぎになるのだろう。 <きのうから続く> また、原作の2人の孤立と孤独を暗示する部分が、映画ではせつなく、ロマンチックなゆるし合いの場に変わっている場面として、春先の最後の逢瀬の2人の別れのシーンがある。最後の最後になってイニスが「次は11月まで会えない」と言い出し、8月に会うつもりでいたジャックは激しく落胆し、2人は言い合いになる。 原作では、ジャックが「いっそ別れられらいいのに」と口にしたとたん、イニスは「まるで心臓発作を起こしたように」膝をつき、その場に倒れこんでしまう。それを見たジャックが驚いて駆け寄ろうとする。だが、ジャックが助け起こす前に、イニスは「自分で」立ち上がっている。 映画の台本では、「いっそ別れられたらいいのに」と言われたイニスが、ふいに涙をこぼしながら、「じゃあ、何でそうしないだ? どうして俺をほうっておいてくれないんだ。ジャック、お前のせいで俺はこんなふうになった。今の俺には何もない。行き場もない(映画の字幕では「俺は負け犬だ」となっていたが、それは若干ニュアンスが強すぎる)」と言う。それを聞いたジャックが近寄ろうとするが、「来るなよ!」と、一瞬イニスは背を向ける。だが、ジャックはさらにイニスに近寄り、今度はイニスも逆らわない。「こっちへ来い。いいから、もういいよ、イニス」。映画ではここでジャックは強く、やさしくイニスを抱きしめている。原作ではジャックの言葉に衝撃を受けながら、イニスは結局自分1人で黙って立ち上がるのに対し、映画ではジャックがイニスをなだめ、抱擁することで、お互いの「どうにもならなさ」をゆるしている。 そして、そのあとに美しい追想のシーンが突然入ってくる。若いころのブロークバックマウンテン。2人が関係をもつ前のエピソードで、羊番を交替したイニスが、夕食を食べて出かける前に、火の前で立ったままウトウトしているジャックを後ろから抱擁し、ちょっとしたやさしい言葉を呟いたあとに、「じゃ、また朝会おう」と言い残し、馬に乗って出かけていく。それをジャックが半ばまどろんだような、うっとりとした表情で見送る。映像では、ジャックのイニスに対する思慕の芽生えと未来への期待感を暗示した場面のように見える。 だが、原作にはそこに、どうにもやるせないジャックの心情が書き添えられているのだ。「イニスが自分を正面から抱こうとしなかったのは、彼が抱いているのが自分だということを見たり感じたりしたくなかったからだということはわかっていた」。 つまり、原作では、ここでジャックはイニスが自分をどこかで拒否していることを感じているのだ。だが、映画のこの場面は、せつなく美しく、だが唐突で曖昧で、観客がそれぞれ自由に解釈できるようになっている。そして、夢見るようにイニスを見送る若いジャックの表情がアップになったあと、それが、中年になったジャックの厳しく寂しい、そして何かを決心したようにも見える顔にとってかわる。視線の先にあるのは、去っていくイニスのトラックだ(実際、物語の断片をつなぎ合わせると、このあとジャックは実家に行き、「別の男」と牧場をやる、と父親に話すことになるのだ)。ロマンチックな余韻からつらい現実へ、瞬く間に移るこうした映像表現の秀逸さは、アン・リー監督の真骨頂だろう。 イニスの抑圧は、父が取った行動によるトラウマが原因だが、これは2人の住む世界を支配しているキリスト教的倫理観に絡む問題で、実際にジャックが山でふざけて歌うのは賛美歌だし、イニスとの会話にもキリスト教のどの宗派か、などといった話題も出てくる。だが、宗教に絡んだ精神的抑圧に関してはアメリカとヨーロッパでは若干見方が違う。アメリカでこれをもっぱら社会的な問題として捉える傾向があるが、ヨーロッパではこれは哲学的な問題だ。どういうことかというと、宗教的価値観から生まれた差別意識が社会を支配し、差別対象になった「価値観から外れた人」を外側から抑圧しているという考え方がアメリカ的であるのに対し、宗教的価値観が人々を深く支配し、それがときにゆがんだ極端な形となってある集団や家族や個人を、内側から抑圧するというのがヨーロッパの哲学的思考だからだ。実際、同性愛的な傾向の色濃いヴィスコンティ監督の作品の登場人物たちは、常に自分を内側から縛っているものと葛藤している。 イニスの抑圧は、ヨーロッパの知識層が共通した素養としてもっているキルケゴール哲学における「絶対不可能なこと」に近い。キルケゴールは若い頃、ある女性を愛し、求婚している。ところが実際に結婚が間近にせまると、「人生には絶対不可能なことがある」といって一方的に破棄している。相手は当然なかなか納得せず、紆余曲折があるが、結局別の男性と結婚する。キルケゴールはだが、その後も彼女を愛し、自分の財産を彼女に譲ると遺言を書き、彼女より先に亡くなる。この不可解な婚約破棄の原因は諸説あるが、キルケゴールの父親が非常に信心深く、「自分は神の怒りをかった人間。だから、自分の子供はキリストより長くは生きられない」と信じこみ、それを子供たちにすりこんだ結果、キルケゴールは短命である自分が人並みの結婚をし、相手を不幸にすることは許されないのだという考えにとりつかれ、どうしてもそこから逃れられなかったという説が一般的だ。これはイニスがもっている「男同士で住むなんて、問題外」というすりこみに極めて近い。 同性愛者であることが周囲に知られれば、タイヤレバーで殴り殺されることになるというすりこみから、イニスはついに自由になることはできなかった。そうしたすりこみを持たないジャックに、何度「一緒に暮らせば、幸せになれる。牛や羊を飼って、俺たちの本当の人生が送れる」と言われても、イニスはタイヤレバーの恐怖から逃れられない。イニスにとって、男同士が一緒に住むことは、破滅なのだ。これはイニスを内側から抑圧する力の強さを示している。原作では、だから、そうやって自分が守ろうとしたジャックを、むざむざ路上で死なせたジャックの妻に対して、イニスは怒りを覚えている。徹頭徹尾、イニスにはジャックしかないのだ。映画とはそこが大きく異なっている。 「ブロークバックマウンテン」は、ヨーロッパでは英国アカデミー賞、ベネチア金獅子賞などを獲得して最高級の賛辞をもって迎えられたが、当のアメリカでは、米アカデミー賞作品賞を人種差別問題を先鋭的に扱った「クラッシュ」に譲っている。これはヨーロッパではイニスのトラウマを哲学的問題としてとらえ、それを巧みに扱った作品として評価したのに対し、アメリカではそうした視点で作品を見る姿勢が欠けていたからだと思われる。アン・リー監督はもともと、積極的社会派でもなくリアリズム追求派でもない。人生に対する哲学的思索を、研ぎ澄まされた美的感覚で切り取った映像の中に織り込むタイプだ。「ハルク」のような娯楽作品においてさえ、ややエディプス的な哲学論を作品に含ませようとして、これは明らかに失敗している。 <明日に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.28 00:14:32
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