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テーマ:映画ニュース(1431)
カテゴリ:Movie
1月13日に市川崑監督(92歳)が亡くなった。この人ほど、日本映画界の「巨匠」と呼ぶにふさわしい人はいない。生涯に撮った映画・テレビドラマは80作に近い。大変に多作で、『東京オリンピック』のように、記録映画を超えた芸術作品として内外から高く評価されるものあり、『金田一シリーズ』『木枯らし紋次郎』などの大ヒット娯楽作品あり、『古都』『細雪』などの文芸大作あり。
なんといっても、その格調高い映像美は、後に続く映像作家にとっては教科書のようなものだろう。伝統的な日本の自然美を撮らせたら、この人に並ぶ人はいない。一面のススキの野原に光が差してきて、穂が金色に輝く。古い家屋の灰色の瓦に雨が打ちつけて、雨粒がしたたり落ちる。山奥の陰鬱な湖に雲がたなびき、たった今雨が上がったようなしっとりとした風情をかもし出す。すがすがしい一面の竹の緑に一陣の風が吹いて枝がしなやかに揺れる。絢爛たる桜が咲き誇り、狂ったように花びらが舞う。雨が降り出し、路上に蛇の目傘の花が咲く。そうした、一幅の日本画のようなカットを挙げ始めたら、ページが何枚あっても足りない。しかも、それだけではない。ネガポジ反転や、恐ろしく細かくすばやいカット割りなど、実験的な手法も各所に散りばめられている。女優は総じて、美人画風に撮る。結い上げた髪やオカッパ頭に白い肌。特に着物の立ち姿を華麗に撮ることには定評がある。 だが、視覚的な美しさやおもしろさ以外だと、案外この監督は、訴えかけてくるところが少なかったのも事実だ。キャストは豪華すぎて、なんだか4番バッターばかり集めた野球チームでも見ている気分。俳優同士がお互いに遠慮しあってしまっているようで、強烈な印象に残る演技というのがない。もちろん、石坂金田一は大変なアタリ役で、ホームズやポアロに並ぶ「日本の名探偵」像を作り上げたといっていいと思う。金田一探偵というキャラクターを作るうえで、石坂浩二は市川監督と相談して、「宇宙から来たような」浮世離れした雰囲気を出そうとしたのだと言っていた。そのために、彼のカバンに何をどう詰めるか、あれこれ考えたのだとか。確かに、この試みは成功し、石坂浩二という人自身がもつインテリジェンスなイメージとあいまって、(今のところは)他者の追随を許さない金田一像ができあがったと思う。 だが、それにしても、たとえば黒澤映画における三船敏郎や大島渚監督の『愛のコリーダ』『愛の亡霊』における藤竜也(藤原竜也じゃないよ>若者のみなさん)のような、世界的に見ても圧倒的な存在感を放つ俳優は出てこなかった気がする。石坂金田一についても、その成功はドメスチックなものに留まっているし、女優はといえば、高峰三枝子、岸恵子、浅丘ルリ子、佐久間良子、草笛光子、吉永小百合など、綺羅星のような面子が並んでいて、これじゃ文句もつけようがないが、といって、彼女たち大女優が、「それまでにないような」印象的な演技をした記憶もない。若い(当時)人気のあった女優も多く使ったが、お人形顔の美人がお人形顔で演技してるだけ、という感じ。市川作品から大女優へ羽ばたいた若手女優というのはほとんどおらず、どちらかというと若さを失うと同時に消えていったような、「昔人気のあった」人ばかり。 テレビでは「海外でも高い評価」と言っていたが、市川作品に関していえば、どう考えたった国内での評価が高い。確かに海外でも、映像のプロからは尊敬を集めているが、世界的にも有名な大きな賞については、だいたい「ノミネート」や特別賞の類に留まっている。個人的な感想だが、横溝正史シリーズは、事件が立て続けに起こる場面での緊迫感やおどろおどろしさは楽しめるが、謎が解かれてしまうと案外陳腐。文芸作品はといえば、ノーベル賞作家をはじめ、海外でも知られたものを取り上げながら、案外ストーリーが退屈。たとえば『細雪』。これは没落していく特権階級の女たちが、現実をかえりみず、浮世離れした貴族的な季節行事を続けていく話で、特にイタリアでは物凄く人気がある。谷崎潤一郎なんて、『痴人の愛』のイメージがどうしたって強くて、実はMizumizuにとっては吉行淳之介と双璧(苦笑)をなす、「生理的にダメな作家」なのだが、日本文化に興味のあるイタリア人は必ずといっていいほど、「タニザキのササメユキ、すごくいい!」と言う。 確かに、『細雪』は、イタリア人が好みそうな退廃的な耽美の世界で、だから、作りようによってはベネチア金獅子を狙えたかもしれないのだ。ところが、市川版『細雪』は、没落していく階級に寄せて、時代の大きな流れをとらえることよりも、大阪弁の美しさにこだわり、4人の女たちの性格と人生観・恋愛観を描き分けることに注力されていたように思う。だから、『細雪』は国内ではさまざまな賞を得たが、国外ではサッパリ。巷では、「吉永小百合が、ちょい悪」になったとかで、ファンに衝撃(?)を与えたようだが、あの程度の役(たしかに、ちょっとよくわからない、クセのあるヘンな性格だったかもしれない)で、そんなふうに言われてしまう大女優のイメージの強さと、それから逸脱できない日本映画の限界があったような気がした。岸恵子と佐久間良子が共演することでの、「化学変化」もまったくなし。誰も彼も「殻」をやぶれない。ただ、着物が豪華だったな、とか、顔が綺麗に撮れていたかな、とか、桜の中を歩いていくシーンは圧巻だったな、とかそういった印象しかなく、ハッキリ言って物語は退屈だった。 市川監督の描き出す伝統的な日本画的な風景、それに実験的手法を組み入れた斬新な映像美は賞賛に値するのだが、物語があまりに日本的な情緒に終始していて、グローバルな共感と影響を与えるような精神性に迫れなかったのは、ちょっと残念だ。東洋的な曖昧な世界観をもちながら、アメリカでもヨーロッパでも高く評価される物語映画を作る、台湾出身のアン・リー監督の昨今の活躍を見るにつけ、「映像美だったら、負けないのに」と、Mizumizuの中のドメスチックな血がくやしがっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.02.25 18:29:30
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