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カテゴリ:Movie
<3月19日のエントリーから続く>
マルチェロ・マストロヤンニは若いころの舞台劇での思い出を語るとき、芝居がはねたあとの仲間との交流の楽しさを強調している。ことに出し物がうまくいっているとき、劇団の仲間には家族的な雰囲気が生まれる。遅くまでやっている店にみなで繰り出し、その日のお互いの演技について指摘しあったり、ときにはからかったりして時間を過ごす。それがなによりの喜びなのだと。 ジャン・マレーはといえば、若い俳優たちで作った劇団企画の『オイディプス王』で、脚本・演出を手がけるジャン・コクトーが彼にいきなり主役を与えようとしたこと、さらには次作『円卓の騎士』での主役が決まったことで、一部の劇団員から激しく憎まれ、対立していた。マレーの自伝によると「とても卑しい陰口を叩かれた」のだという。 「やってらんねーよ、なんでよそ者のアイツがいきなり主役なわけ?」「カオとガタイだけの役者だろ?」「芝居ヘタだし」「カラダで役取ったんじゃねーの、相手はコクトーだしさ」な~んていう2ちゃんねる風の悪口を言われたかどうかは知らないが、いつの世もやっかんだ人間の言うことなど同じようなものだろう。 マレーは頭に来て、張り倒したい衝動にかられるが、「そんなことをしてもどうにもならない」と思いとどまる。そのかわり、意地悪な団員相手にまったくのお人よしを「演じる」ことでやりすごすことに決め、自分に与えられた「分不相応な幸運」をムダにすまいと、演技の勉強に集中した。 コクトーはしばしば、マレーをオテル・ド・カスティーユに呼び出す。そのころの楽しい思い出としてマレーが挙げているのは、後に映画『美女と野獣』の美術を担当し、コクトー映像の美の世界を作り上げるのに一役買うことになるクリスチャン・ベラールの訪問だった。コクトーとベラールはホテルの部屋にあるタオルやベッドカバーといった備品と自分たちの私物を組み合わせて思い思いに変装し、演じたくなった芝居の好きな場面をそれぞれが即興で演じてふざけあった。本業のマレーが観客で、それを見て笑いころげたという(とことん芝居好きの3人……)。 同時にマレーは、若いころから天才の名をほしいままにし、彼にとっては雲の上の人だったコクトーの意外な一面を知ることになる。ある日、「正午に会いにおいで」と言われて行くと、コクトーは阿片の匂いの充満する部屋でまだ寝ており、起こしてもなかなか目を覚まさない。やがて徐々に覚醒したコクトーは、自分を揺り動かしているマレーを見るともなしに見つめながらふいにつぶやく。 「ぼくは死にたい」 コクトーのような有名人は幸せに違いないと信じ込んでいたマレーは、その言葉を聞いて思わず泣いてしまう(そろそろ反応が変だよ、マレー君)。マレーの涙を見てコクトーは我に返り、許しを請う。 「ジャン、もう死にたくないでしょ?」 「うん、今はもうね。眠っていて幸せなことを忘れてしまったんだ」 マレーはコクトーを幸せにしたいと思う。そして、そのためには阿片中毒を治す必要があると痛感する。同時に自分は絶対に麻薬に誘惑されたとコクトーに告白する事態には陥るまいと心に決める。「自分の仕事は俳優。何よりも健康が第一だし、そのためには節制した生活を送らないと」。マレーはその信念を守り、80歳を超えても舞台に立った。70歳を超えてから日本で1人芝居を上演したこともある。 もう1つマレーが心に決めたことがある。それはコクトーに経済的な支援を求めないことだ。マレーはかつてレルビエ監督と自分の関係が歪んでしまったのは、貧乏だった自分がレルビエからお金を受け取ったり、食事を奢ってもらったりしてしまったせいだと思っていた。その轍は踏みたくない。 さて、『円卓の騎士』の稽古に入る前に、コクトーはマレーに数週間南仏で過ごさないかと誘う。マレーは承知するが、母親がいい顔をしない。マレーは母に「コクトーに会って。そうすれば彼がどんな人かわかるから」と頼むが、母は会おうとはしない。彼女はコクトーと出会ってから、息子が自分から離れていくのを感じて悩んでいたのだ。異常なほど親密な絆で結ばれていた母と息子の関係が崩壊しはじめた瞬間だった。後年マレーの母は、息子が大病をした際に自分のことのように苦悩するコクトーの姿を見て、マレーとコクトーの関係には敬意を払うようになる。だが、そのほかの人に対しては、常にマレーとの間に入って両者に嘘をつき、互いの仲を引き裂くように画策し続けた。 息子は息子で、母親が「仕事」といっては窃盗を繰り返す姿をずっといたたまれない思いで見てきた。 「今にボクは金持ちになるよ。そうしたら、母さんは『仕事』しなくてすむよね」 「そうなりたいものだね」 確かにマレーは金持ちになった。だが結局、母の窃盗壁はついに完全には治ることはなかった。コクトーの麻薬中毒も、一時はマレーの努力もあって治癒したものの、晩年には再発している。 さて、「役作りに必要だから」と母を押し切って(役作りに必要? 演出家と旅行するのが? ふ~ん……)、コクトーとともに南仏に向かったマレーはそのときに生まれて初めて寝台車に乗る。列車がリヨンを過ぎてしばらくたったころ、コクトーがマレーに教える。 「ヴァランスを過ぎると南フランスだ。バラ色の瓦屋根を見てごらん」 マレーはここまで南に来たことはなかった。そうして2人が降り立った街は、ツーロンだった。 ツーロン! そこはコクトーにとって特別な街だ。マレーと出会う10年前、つまり1927年の末にコクトーはたぶんに自伝的な要素を含む小説『白書』を署名なしで秘密裏に発行している。「秘密裏に」というのは、初版がたったの20~30部だったからだ。ほとんど読まれることを拒否しているかのような部数。出版社名もなし。1930年に限定450部で再版、1949年になって予約限定500部で発行。つまり、執筆してから10年以上たっても、一般にはほとんど読まれていなかったということになる。しかもコクトーは公けには、それが自分の作品であることを認めず、サインもしなかった。 なぜか? それは『白書』があまりに赤裸々な同性愛者の魂の告白を綴ったものだったからだ。コクトーの「公式」の作品には同性愛を直接テーマにしたものはただの1つもない。ところが『白書』に出てくるのは同性愛者ばかり。「私」という語り手が、幼いころ自分のセクシャリティを自覚し、世の中を支配しているキリスト教的な倫理観に苦しみながらも、宿命の出会いと悲劇的な別離を次々に繰り返していく。そのなかでもとりわけ異彩を放つ特別な街として描かれているのがツーロンなのだ。 『白書』の中で、「私」はツーロンを「魅惑のソドム」と呼んでいる。そこに描かれたツーロンはこうだ。 「夕暮れには、さらに甘い寛容の気配が街を浸し」「世界中から、男の美の虜になった男たちが水兵を見にやって来る。水兵たちは1人で、あるいは一団となって気ままにぶらつき、秋波には微笑で応え、愛の申し出を決して拒まない。夜の妙味が、どれほど乱暴な徒刑囚でも、どれほど粗野なブルターニュ人でも」「花で飾り立てた立派な女に変身させる。彼女たちはダンスが好きで、踊りの相手を何の気兼ねもなしに港のいかがわしいホテルに連れ込む」(『白書』山上昌子訳 求龍堂) もちろんこの倒錯した卑猥な雰囲気は、現実のツーロンとは違った磁場をもつツーロンのそれかもしれない。『白書』は自伝的な小説であって、ドキュメンタリーではない。現実にはありえないようなことも次々起こる。ある意味、非常に幻想的な作品でもあるのだ。だが、コクトーが過去しばしばツーロンに来ていたこと、そこに『白書』に登場するような人物がいたことは事実として確認されている。そんな街に、コクトーは何も知らない若いマレーを連れてきた。1937年当時のマレーが『白書』を読んでいた可能性はほとんどゼロだ。ただ奇妙な符合もある。マレーは高校時代、自ら女装して退学処分になっている。 奇妙な符合はそれだけではない。『白書』で「私」は「パ・ド・シャンス(ついてない)」と入墨をした、粗野で屈強な体躯の水兵と出会い心惹かれる。パ・ド・シャンスの入墨を万年筆で線を引いて消し、そこにハートと星のマークを入れた「私」は、この男と共に生きたいと心を動かされるのだが、結局「彼と私は世界が違う。一緒に暮らすのは不可能だ」と、重い気持ちで別れを決める。別れる決心をした理由の1つは、パ・ド・シャンスの心の卑しさ――「私」が貸した金のネックレスをあわや盗もうとしたこと――だった。マレーはといえば、南仏に来る前、ホテルに彼を呼び出したコクトーから「タクシー代をあげるからクルマで帰れば?」と言われてもきっぱり断り、歩いて帰っている。また、「自分は絶対にいつかコクトーと出会う」と思ってそうなったように、自身がとても「ついている」人間だと常に信じ、他人に公言してはばからなかった。自分を「ついてない」と考えてそう入墨した水兵と出会い、そして心を痛めながら別れた虚構の空間に、自分は「ついている」と信じている美貌の青年を実際に連れてきたコクトー。さらにその後すぐコクトーは、ホテル暮らしをやめてマレーと一緒に暮らし始めている。 マレーの自伝に描かれたツーロンは、だが、『白書』に登場する猥雑な街とはまったく違う。マレーがコクトーと過ごしたツーロンは、上品で優雅な美しさをたたえた文字通りの「魅惑の街」だ。 「彼(コクトー)と見たすべての景色、地方、町々はとても素晴らしかった。彼のおかげで、これまで見たことも、想像したこともない美しさを教えられた。そして彼はツーロン旧市内の家屋の、素朴な優雅さを湛え(注:訳文ママ)、そして美しいノッカー付きの小さな扉口の前で私の足を留めさせた」「私たちは何時間も街を歩き回った。美しく非凡なものすべてに対する彼の熱狂ぶりが、それまで誰にも教えられなかった数多くのことを学ばせた。それは寸暇もない勉強となった」「私は幸福だった」「私はジャン(コクトー)を愛してしまったのだ」(『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』石沢秀二訳 新潮社) そしてマレーはナイトのような行動を取る。コクトーが気に入って、2人で何度も見に出かけた手袋屋の「赤い鉄製の手袋の看板」を譲ってもらいに行くのだ。「ある晩、ジャンに内緒で、私は手袋屋に出かけた。二階へよじのぼり、店の主人が譲ると言うまで、手袋にぶらさがった。そして持ち帰り、わが目が信じられないというジャンに渡した」 うーん、さすがに後年のアクション俳優。マストロヤンニじゃこうはいかない。一階の窓に飛びついたあたりで、すぐに地面に落ちそうだ。 「手袋」もコクトーの世界では現実と幻想を結ぶ象徴的なアイテムだ。特にコクトーワールドの手袋は「忘れられる」ことが多い。『白書』では、屈強な水兵「パ・ド・シャンス」が忘れられた「私」の手袋に頬ずりしながら涙を流している姿を、「私」がドアの隙間から窃視する場面がある。その物語が書かれて10年後、『白書』の世界は何も知らない、やはり屈強な体躯をもった美貌の青年が「コクトー」のために、コクトーの気に入った手袋の看板を届けてくれたのだ。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.03.26 12:29:12
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