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<きのうから続く>
プロの俳優としてのキャリアをスタートさせたばかりのジャン・マレーがベテランのイヴォンヌに助けられたように、マルチェロ・マストロヤンニにとっても恩人ともいうべき先輩がいた。それはビットリオ・ガスマン(1992~2000年)。マストロヤンニより2歳年上の俳優で、2人はヴィスコンティ主宰の劇団の先輩・後輩だった。 同劇団に入団したばかりのマストロヤンニのコンプレックスはアカデミックな演劇教育を受けていないことだった。一方のガスマンは大学を卒業後、国立演劇アカデミーに学んだいわばエリート。マストロヤンニは基礎のしっかりしたこの先輩俳優を晩年まで「偉大な名優」と呼んで尊敬していた。 1949年、つまりマストロヤンニ入団の次の年、劇団は『オレステ』の上演を企画する。『オレステ』はギリシア史劇をもとにしたアルフィエーリ作の悲劇で、韻文の台詞が格調高く、非常に難しい。現代人のふつうのしゃべりなら得意なマストロヤンニだが、こうした重々しい時代モノは苦手だった。 そんなマストロヤンニにガスマンはとても親切だった。演出のヴィスコンティに見つからないように、控え室で時間をみては演技の手ほどきをしてくれたという。だが、マストロヤンニはどうしても自信がもてない。とうとう初日が来てしまい、緊張しまくったマストロヤンニは何度もトイレに行き、ほとんど「トイレに隠れてる状態」になってしまう。そこへガスマンがやってくる。猫でもひっぱり出すように、マストロヤンニの首根っこをつかむガスマン。 「おい、いい加減にしろよ。俺たちの出番だぞ」 急いで舞台へ走りながら、あわててスボンのボタンをとめるマストロヤンニ(嗚呼! マレー君と違ってなんて色気のないエピソードなんだろう)。 ちなみに、オレステ役はマレーも『アンドロマック』の舞台で演じている。そのときのマレーについては、ジャン・コクトーの『占領下日記』(筑摩書房)に、「彼(マレー)の姿勢には脱帽する。彼が動いていないとき、つまりあたかもいける彫像と化したとき、最美のオレスト(=オレステ)を見る思いがする」という評論家の賛辞が紹介されている。 マストロヤンニが尊敬するガスマンは舞台俳優としては大いに評価されたが、映画ではなかなか人気が出なかった。彼を有名にした映画は、偶然にもマストロヤンニと共演した喜劇映画『いつもの見知らぬ男たち』(1958年)での間抜けなギャングのリーダー役。マストロヤンニが『白夜』(1957年)に主演した翌年のことだ。もともとアカデミックな正統派だったガスマンがこんなキャラクターでブレイクしたのは、もしかしたらこうしたジャンルが得意なマストロヤンニの「助け」もあったのかもしれない。 また、コクトーとの縁もある。1945年にヴィスコンティはローマでコクトーの戯曲『恐るべき親たち』と『タイプライター』を演出している。このときまだマストロヤンニは劇団にいなかったが、ガスマンは出ている。『恐るべき親たち』は、パリでの初演から遅れること7年。現実の物語でありながら、「どこか幻想的」と最初の読者であるマレーが感動した物語を、ヴィスコンティも自身で「演出してみたい」と思ったのだ。 マレーもマストロヤンニも舞台からスタートし、のちに映画で世界的な名声を得るが、どちらかというとマレーのほうが舞台への思い入れが強いかもしれない。マレーの自伝を読むと、映画での役作りについてはあまり触れられていないが、舞台での役作りの苦労や工夫にはかなりのページを割いている。映画については。「○○(国や場所)でXX(映画のタイトル)を撮った」というあっさりした記述が多い。映画と舞台の調整に苦労した話やそれにともなうトラブルの話は非常に多い。収入だけ考えると映画のほうがいいのだが、ときに舞台に集中するために長く映画出演を断り、経済的に苦しくなったこともある。 マストロヤンニも舞台にはこだわりをもっているが、『甘い生活』以降は舞台から遠ざかった印象がある。なにしろ生涯で170本もの映画に出ているのだ。マストロヤンニ自身「自分の本当の人生が幕間に逃げてしまうほど次から次へと演じてきた」と言ってる、また「170本のうち70本は駄作」とも。「脚本を読んだ時点で、どうやったっていい作品にはならないとわかる映画もある。それでも自分は出る」というのがマストロヤンニのスタンスだった。 マレーは脚本を読んでその役が自分に合わないと思うと絶対に出ようとしなかった。違約金を払うこともあった。また、たとえば演出家や共演者が最適だと思っている役者を、プロデューサーが個人的に気に入らないという理由で降ろしたりすると抗議に行き、ついでに自分も役を降りたりしている。あるいは、権威をもった「お偉いさん」が「ジャン・マレーがもしこの映画への出演を拒否するなら、仕事ができなくなるまで公けにこき下ろすから」などと脅しをかけてくると(ナチスドイツの占領下のパリではこういうこともあったのだ)、脚本も共演者も気に入っているにもかかわらず、出演を拒否した。つまり、マレーという人は、たぶんに「騎士的な性格」だったのだろうと思う。実際彼は占領時代、対ドイツ協力派で自分とコクトーを執拗に攻撃していた有名な評論家を路上で思いっきり殴り倒すというスキャンダルも起こしている。 マストロヤンニは舞台と映画の違いについて、「舞台では声、映画では目の演技が大事」と言っている。また、「役を距離をもって見る冷静さが俳優には必要」だというのが確固たる1つの信念だ。役者は観客を泣かせるものであって、自分がどっぷり涙にひたってはいけない。特に舞台では観客の反応を見ながら、やりすぎていると感じたときはしばしばブレーキをかけるのだという。長い役者人生の中でも、彼は「本気で」感極まってしまったことはほとんどないと断言している。だが、何度か思いがけずそうした状態に陥ってしまったときは、とても困惑し「役と自分との距離をとりそこなった」失敗だと感じたという。確かに本当に感極まってしまうと、人間は何も話せなくなる。また、何かを表現する人間が、常にそれを外から観賞する視点をもつことが大事だというのは、普遍的なセオリーだろうと思う。 同時にマストロヤンニは舞台の怖さも指摘している。特に映画で育った役者は舞台を怖がる。本番の舞台の幕が開いたら、トチったからといって「もう一度テイク」というわけにはいかない。マトロヤンニはこんなエピソードを挙げている。 1960年代の中ごろ、喜劇作家でもあり脚本家・映画監督でもあったエドゥアルト・デ・フィリッポが、自作をブロードウェイの舞台にかける話をマストロヤンニにもちかける。戦後ナポリからニューヨークに移住したイタリア人カップルがそこで子供を育てていくというストーリーで妻役はもちろんソフィア・ローレン。マストロヤンニとローレンは12本もの映画で共演し、映画の世界では、本物の夫婦以上の夫婦といわれた最高のカップルだ。 マストロヤンニはこの話に大いに期待をかける。ローレンは英語がうまい。自分はヘタだが、設定からすればそれぐらいがちょうどいいかもしれない。ブロードウェイの舞台で成功したい。マストロヤンニの夢がふくらむ。 「ソフィアには君から話してくれるかい?」 「もちろんですよ」 そして、マストロヤンニは勇んでローレンに電話する。 「ソフィア、すごいチャンスだよ。エドゥアルトがブロードウェイで『フィルメーナ・マルトゥラーノ』をやりたいってさ。2人でこんな冒険ができれば、僕たちも若返ること間違いなしだと思わないかい? 気分を変えて舞台に出ようよ。そうしたら君だってきっと……」 「私は今でも若いわよ」 そっけないローレンの声。 「だから舞台なんてやる必要ないの」 一方的に膨らんでいたマストロヤンニの夢風船を破裂させる針の一刺し。ソフィア・ローレンは映画で育った女優だった。「結局彼女も舞台が怖かった」とマストロヤンニは回想している。 「舞台」というものの魅力と魔力は、好きではない人、興味のない人には説明しても意味がないかもしれない。舞台は映画とは違う。いくら映画の撮影技術が進み、現実離れした夢の映像を見せてくれるようになっても、その場で生身の役者が演じる舞台の魅力にとってかわることは決してない。 舞台演劇は一期一会であり、役者と観客が1つの空間を共有することに醍醐味がある。劇場はそもそも建築家の芸術作品だが、ただ設計して建てただけでは完成しない。お客が席に着き、幕が開いて初めて完成するのだ。 虚構の世界が現実として目の前の空間に展開していく。そして一瞬ののちに移ろい、消える。声が劇場を満たし、役者が動き、多くの観客が一緒にそれを聴き、見つめ、昂揚する。その臨場感と一体感が素晴らしければ素晴らしいほど、劇場の外にいて奇跡を知らない人々が気の毒になってくる。 マレーやマストロヤンニの演技をだから、映画でしか知らない今の日本人は、彼らの横顔の一方しか見たことがないのに、それですべてを判断しようとしているのかもしれない。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.04.28 15:25:20
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