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カテゴリ:Movie
<6月5日のエントリーから続く>
ジャン・コクトーが自分のために書いた『バッカス』を振って、コメディ・フランセーズに入団し、演出・舞台装置を担当したうえで、得意のネロン(皇帝ネロ)役で初舞台を踏むことになったジャン・マレー。 稽古に勤しんでいた1951年10月、イタリアからルキーノ・ヴィスコンティがマレーを訪ねてきた。ヴィスコンティはこのとき、ちょっとした「沈み」にいた。最新作『ベリッシマ』のイタリアでの封切りが2ヶ月後に迫っていたが、フランスでの配給は見通しが立っていなかった。玄人筋からのヴィスコンティ映画の評価自体は非常に高かったが、商業的成功には懐疑的な視線が向けられ、新しい映画を撮るための資金調達が次第に困難になりつつあった。何らかの方向転換を図る必要性を、このイタリアの天才演出家は感じていた。 一方のマレーは、コメディ・フランセーズで演出家兼役者という前例のないデビューを飾る自分が誇らしかった。 「初日はいつだ?」 「来年の1月半ばぐらいの予定だよ。君も観に来てくれると嬉しいんだけど」 「君の晴れ舞台だ。必ず来るさ。2月ぐらいに映画のことで仕事もある」 「2月か……」 マレーは表情を曇らせる。 「2月までやってるかな」 「1月中旬に始まるんだったら、問題ないだろう?」 「でも、ぼくの芝居だからね。『アンドロマック』のこともあるし」 「催涙弾を投げつけられたって、あれか?」 「それに銃もね。劇場に入るのを妨害された」 「結局何日もったんだ?」 「6日」 「6日か! それもすごい話だな」 「おかげでぼくは破産寸前」 「しかし、それは戦争中の話だろう。いくらなんでも今の世の中でそれはないだろ」 「だといいけどね。何しろぼくやジャンのやることは、何が何でも妨害するのが正義だと思ってる奴もいるから。いまだにね」 「わかった。なるたけ早く観に来るよ」 「催涙弾に備えて、ハンカチを忘れるなよ」 2人は爆笑して別れた。 その後、総監督をつけるつけないで、コメディ・フランセーズ側とマレーに一悶着あるが、コクトーの説得や劇場支配人の努力もあってなんとか丸くおさまり、迎えた初日。マレー自身も予想していなかったスキャンダルが待っていた。 『ブリタニキュス』は、それまで母后アグリッピーヌに忠実で、善政をしいてきた若きローマ皇帝ネロン(ネロ)が、恋敵の義弟ブリタニキュスを殺害し、母の支配からも脱して、自らの意思で狂気と悪の道へ進んでいくというラシーヌ作の悲劇。 マレーの出番は第二幕からだった。マレーは髪を巻き毛にし、赤い金属片を頭と眉毛に振りかけて準備をした。仲間が演じている台詞を聞くと怖気づきそうだったので、出番ギリギリまで舞台の見えない楽屋で気持ちを落ち着かせていた。 出入りの衣装係に、芝居はうまく進んでいるかと聞くマレー。 「順調ですよ」 だが、本当は幕が上がったとたん、マレーの舞台装置に対して非難の口笛が吹かれていた。マレーを気遣ったスタッフが黙っていたのだ。 出番が来た。舞台の中央に作られた階段の上に皇帝ネロンが姿を現す。 と―― 劇場を揺るがすような、凄まじい罵声が沸き起こった。マレーはあっけにとられて立ちすくんだ。 観客はわめき声をあげ、口笛を吹き、足を踏み鳴らした。遅れて、拍手が沸いてきた。 「ブラボー!」 まだ一言も台詞を言っていないのに、歓喜の声を上げる客もいる。観客同士が罵倒し合い、物を投げ合ったり、つかみかかったりする喧嘩騒ぎになった。 マレーは黙ったままだった。客席の混乱はかつてマレーが見たことがないほどひどかった。およそ5分、口を開かずに身じろぎひとつしないネロン。観客の乱痴気騒ぎがおさまるのを待って、ようやく最初の台詞を静かに語り始めた。 観衆は口をつぐんだ。共演の仲間は舞台の上で、マレーに芝居を続ける力があるかどうか問いかけるように見つめていた。 ――これは、戦争なんだ。 マレーは自分に言い聞かせる。闘いには勝たなければならない。だが、意思とは裏腹に身体はブルブルと震えていた。髪にふりかけた赤い金属片が頬を伝って流れ出すのを感じた。 最初の退場のときには拍手も起こったが、すぐに汚い罵声と口笛でそれもかき消された。 「ジャノ……」 仲間の1人が舞台袖でマレーを引き止めた。 「芝居、中止にするか?」 「とんでもない! 続けるんだ!」 だが、マレーは気分が悪くなってしまう。次の出番からは胃の痛みに耐えながら演じなければならなかった。登場と退場のたびに繰り返される激励の拍手と野次。四幕目では、 「またアイツだよ!」 と叫ぶ声まで聞えてきた。 騒ぎが続くなかで、共演の俳優たちは浮き足立ち、中音の声音で話すようにというマレーの演出上の指示を次第に守れなくなっていた。彼らは伝統的なコメディ・フランセーズの台詞回し、つまり最大限の発声で語る手法に戻ってしまっていた。 第五幕、全身を襲う怖気と闘いながらマレーは演じた。破滅へとまっしぐらに向かうネロンの心理。その怪物的な残虐性を生む狂気。最後はネロンがいだく疑心を観客に強く印象づけて終わらなければならない。幕が下りた。と思うと、すぐ上がった。芝居は終わった。そのときにマレーが聞いたのは、罵声を口笛を覆い尽くす雷鳴のような喝采だった。 ようやくマレーは、野次が一部の客席からのもので、大部分の観客がマレーを支持してくれたことに気づいた。暖かい拍手に力づけられて、なんとか4階の自分の楽屋まで戻ることができた。最後に満場一致のブーイングを浴びせられていたら、恐らく舞台の上で倒れていただろう。 マレーは気を失いそうなぐらい疲労困憊していた。だが、次々に共演の俳優たちが感謝と敬意を表しに楽屋にやってくる。ジョルジュ・ライヒやジャン・コクトーもやって来た。 「こんなすごい芝居を見たのは初めてだよ」 半ば茫然としながら、ジョルジュが言った。 「君のネロンは最高だったよ。実に堂々としていた」 コクトーも興奮気味だった。 「ぼくが見た君の芝居のなかで、今回のネロンが最高だ」 コクトーの絶賛に、マレーは泣きたくなった。 「君の『バッカス』と同じ運命になるとはね」 とマレー。 「想像もしてなかった。でも、ぼくの運命が君の運命と似てるなら、それはそれで誇りに思うよ」 「ジャノ、あのブーイングは策略だよ」 「策略?」 「客席の一部を買い占めた奴らがいる。それは明らかだ。初めっから君の芝居を妨害する目的だったんだ。伝統あるコメディ・フランセーズでこんなふうにデビューしたのは君しかいない。それを快く思わない連中がいるってことさ」 「なるほどね」 翌日の新聞は客席の反応そのままに真っ二つに意見が分かれた。「ジャン・マレーはラシーヌの兄弟である」と絶賛する批評家。「誰かもっとマシな俳優に演らせて、ジャン・マレーは後ろ手に縛り上げるべきだ」と酷評する批評家。 皮肉なことに、この騒ぎでチケットは飛ぶように売れた。毎晩繰り返される罵声と喝采。だんだんマレーもブーイングに慣れてきた。そこである日、観客にこんな提案をする。 「皆さん、共演者を困惑させないためにも、他のお客様のためにも、芝居進行中の示威行為は控えていただけませんか。そのかわり、私を好きなだけ罵倒できるよう、ブーイングのためのカーテンコールの場を設けますので」 マレーは翌日も開幕前に同じ宣言した。その日の客席はそれまでと打って変わって静かだった。ほっとして、ブーイングのためのカーテンコールに出て行くマレー。ところが、まったく罵声は飛んでこなかった! 予想外の反応にマレーは途方に暮れた。これは一体どういうことなのだろう? 翌日はまた客席は大混乱だった。それから1ヶ月の間、1日おきに規則正しくブーイングが繰り返された。 ――やっぱり、ジャンの言うとおりか。 マレーは確信せざるをえなかった。 ――誰だよ、まったく。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.07.09 22:59:17
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