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ヌーベルバーグのさきがけとされる映画が、ジャン・コクトー原作の『恐るべき子供たち』(監督はジャン・ピエール・メルヴィル)だということはすでにご紹介したが、この作品を繰り返し見て、バイブルのように思っていたフランソワ・トリュフォーとコクトーの交流も心あたたまるものだ。
トリュフォーが『大人は判ってくれない』の収益をコクトーに提供してくれたことで、コクトーは『オルフェの遺言』を撮ることができた。 トリュフォー作品には、小道具として「コクトーもの」がちょくちょく登場するのがおもしろい。たとえば『華氏451』では、圧制者によって燃やされる書物の中に、ジャン・コクトーの本がちゃんと混じっている。『アメリカの夜』では、 なぜか、(ほんの一瞬だけ)コクトー・タオルが登場する! ジャン・コクトーの足跡をたどった『ジャン・コクトー 虚構と真実』で、コクトー作品を長々と分析しているのは、ジャン・リュック・ゴダールだ。 一方、俳優ジャン・マレーとヌーベルバーグ監督との相性は、明らかにあまりよくない。ヌーベルバーグの「新しい芸術」がスクリーンを席捲していた1950年代末から1960年代後半にかけては、マレーはほぼ徹底して、『怪傑キャピタン』のような騎士道シリーズ、続く『ファントマ』シリーズと、ヌーベルバーグとは対極にある「たわいもない」娯楽作品に出続けた。 「たわいもない」とはいっても、このころのジャン・マレーの活劇のロケは相当命がけ。 ココ↓に、ファントマのロケ模様が出ているが、下で見物しているパリジェンヌが「落ちないで~」とばかりに祈るようなポーズで見上げている。 http://www.dailymotion.com/video/x3vph0_tournage-de-fantomas-avec-jean-mara_shortfilms 最後にインタビューがあるが(そこでやっと音声が出てくる)、当時のジャン・マレーは最愛のコクトーを失った直後で、「もう生きるふりしかできない」と思っていたころ。もちろんインタビューではそんな心中はおくびにも出さず、ひたすらにこやかに愛想よく応じている。 ヌーベルバーグとは別の道をいったジャン・マレーだが、ジャック・ドゥミー監督とは例外的に補完的で良好な関係を築いている。ドゥミーもトリュフォーと同じくコクトーを尊敬しており、1957年にはコクトー作『美男薄情』を映画化している。そして、同年、ジョルジュ・ルキエ監督、ジャン・マレー主演の『SOS ノローニャ』では助監督を務めている。 『SOS ノローニャ』を見たコクトーはマレーに、「あの映画の君は本当に生き生きとしていて、まるで記録映画でも見ているように、ぼくは君の身を思って震えました」(1957年6月3日)と書き送っている。コクトーが「震えた」のは、この映画のロケで溺死したスタッフがいたため。それほど危険を伴う撮影だったのだ。 『SOS ノローニャ』撮影当時は駆け出しだったジャック・ドゥミーだが、その後『シェルブールの雨傘』などで名監督としての地位を確立する。そして、ヌーベルバーグの波が去った1970年に、マレーはドゥミーの『ロバと王女』に出演している。 この映画はコクトー作品へのオマージュだとも言えるが、実際ドゥミー監督自身、 と言っている。 モンマルトル美術館で開催中のジャン・マレー展には、『ロバと王女』の撮影時の写真も展示されていた。 左がジャン・マレー。右がジャック・ドゥミー。しかし、この写真、左右逆に焼かれている。 実際の映画では、こうなる。 玉座はサンリオ製(←ウソ)。 そして、撮影合い間のショットは王子役のジャック・ペランと。 楽しそうに語り合っている。王子様ったら、このカッコでタバコを手にはさんでチョイ不良風。 ペランは『ニューシネマパラダイス』で大人になったトトを演じたことでも有名だが、プロデューサーとしても『リュミエールの子供たち』『WATARIDORI』などの傑作を世に送り出している。 追記:2009年2月には、『恐るべき子供たち』の室内オペラがパリで再演された。 読者の方からいただいた情報によると、音楽を手がけたのはフィリップ・グラス。出演者はピアニスト3人と歌手4人。 グラスは『オルフェ』(1993年)と『美女と野獣』(1994年)のオペラも手がけており、『恐るべき子供たち』(1996年)と合わせて3部作となっている。 http://blog.lefigaro.fr/theatre/2009/02/les-enfants-terribles-ou-cocte.html お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.03.17 11:41:46
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