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カテゴリ:Movie(ジュード・ロウ)
ジュード・ロウ出演作の中でもっともストーリーが「面白い」と思うのが、『ガタカ』。
近未来というSF的設定に、どう見ても主人公が犯人にしか思えない殺人事件が絡み、かつ「差別」という普遍的テーマを根底にすえて社会派的な意味合いをももたせた、非常に凝ったエンターテイメント作品。 最近は女性をターゲット・オーディエンスにした、やや「甘い」映画があまりに増えてしまった。女性向けの甘さというのは、主に登場人物たちの性格づけにある。自分の行動に対して、他者(仲間)からの理解を求め、認められ、もたれ合おうとする相互依存性の強さ。エゴを否定し、他者のために生き、自己犠牲を美化する――それは現実の社会で、女性が暗に求められている生き方でもある。 今年のNHKの大河ドラマ『天地人』などはその典型だろう。あれ、里中満智子原作かと思っちゃったもんね。戦国時代の武将を描いた物語としては、あまりに甘すぎるが、これまでの戦国時代劇にはない画期的な魅力があるのも確かだ。こうしたドラマがそれなりの視聴率を獲得するということは、たとえ男の世界を描いた作品でも、今ニッポンでは女性からの共感なしには、人気を勝ち得ないということかもしれない。 『ガタカ』はある意味、そうした女性向けドラマの対極にある。『ガタカ』の登場人物たちの眼中にあるのは、自分の夢をかなえること。そのためには時に非合法的な手段に訴え出る。他者から自分の行為が理解されるかどうかは問題ではない。彼らは一様に自我のかたまり。「オレ」がどうあるか、「オレがオレとして」どうありたいか、だけなのだ。 映画としての『ガタカ』の魅力は、ハラハラさせられるストーリー展開にもある。難解な映画には、話の筋を知ってから観たほうが深く楽しめるものもあるが、この作品はそのタイプではない。結末は知らずに観たほうが楽しめる。 SUPERBIT(TM) ガタカ (中古DVD) 映画は視覚に訴えるものだから、美術も大切だ。その意味でも、『ガタカ』は十分満足させてくれる。舞台は近未来なので、建物のインテリアなどは相当に冷たい無機的な質感だが、クルマが妙にレトロだったり、ジュード・ロウ演じるジェロームの邸宅に真に審美的な大きな螺旋階段があったり、さまざまな時代の様式が画面の中に入り混じってくる。また、巨大な火の玉になってロケットが打ち上げられるシーンは、宇宙への憧憬を掻き立てるに十分な美しさを備えている。 そして、ヒロイン。『ガタカ』の主人公の恋人役を演じるのは、ファッションモデル出身のユマ・サーマン。マネキンのような完璧なスタイルにクールな美貌は、まさに、あらゆる男性が一度は手に入れたいと夢見る理想の恋人像にぴったり。髪を上げても下ろしても、前から見ても後ろから見ても、そのままグラビアになりそう。ラブシーンも過激でなく、ロマンチックにきれいに撮っている。露骨なお色気に走っていないのも、Mizumizuがこの作品が好きな理由だ。 妙にレトロなクルマとユマ・サーマン。美女とクルマ――伝統的に男性が好む組み合わせ しかし、ジュード・ロウが出るからには、それだけじゃなかろう… と思ったのだが、やはりこの映画、それだけじゃない。 主人公のビンセントは両親が「自然にまかせて」できた子供で、遺伝子的には病気のリスクが高く、長生きもできない。したがって高度な専門性をもった職業には就けない「不適正」人間だった。一方のロウが演じるジェロームは、生前の遺伝子操作によってあらゆる面で優れた素質をもつ「適正」人間。だが今の彼は、車椅子の生活を送っている。 ビンセントは遺伝子ブローカーを通じてジェロームと知り合い、ジェロームはビンセントの夢をかなえるために、自分の生体IDを提供することになる。 ジェロームは自分の血や尿をビンセントに与え、ビンセントはそれを使って、遺伝子的に「不適正」な人間には決してチャンスのない、宇宙飛行士になるという子供のころからの夢をかなえようとする。 ビンセントに高ピーな視線ビームを発射しまくるジェローム。 出たっ! これぞジュード・ロウの対オトコ悩殺目線。『オスカー・ワイルド』でも、 ときに自分たちの大それた企みに弱気になるビンセントを、ジェロームは高ピーな態度で鼓舞し続け、罵倒しながら支え続ける。夢をかなえたいと願っているのはビンセントなのだが、どちらかというと首謀者はジェロームのようにも見える。 2人の間に芽生える共犯者を越えた友情のような感情。いや、1つの目的で結ばれた同志的な感情なのかもしれない。車椅子になったのは、金メダルを獲るべくして生まれたはずの自分が銀メダルにとどまったことが受け入れられず、自殺を図ったのだとジェロームがビンセントに告白するシーンは、まるでラブシーンのよう(場所もなぜかベッドだし)。 ロウも「必要性があれば脱ぎます」ってタイプだが、今回は車椅子の役でヌードはなし。なのだが、主人公であるビンセント役のイーサン・ホークが、なぜかそれほど必要性のない場所でやたらヌードになっている。 ??? しかも、ジムに行ってビンビンに鍛えた肉体。ああいったいかにもアメリカ人が好きそうなわざとらしいマッチョは、Mizumizuの嗜好にはまったく合致しないのだが、カラダを作ろうという努力はたいしたものだと思う。 イチオシ(???)は、ビンセントと弟との競泳シーン。いい大人になった兄弟が夜の海で素っ裸になり、どっちが長く泳げるかを競い合う。途中で弟が溺れかけ、兄が慌てて助けるという、見ていて恥ずかしいシーンもある。なんで恥ずかしいかって? だってフ●チ●ですよ、2人とも。ありがたいことに、真夜中なのであまり見えない(ホッ)。 あそこで兄弟2人してフ●チ●で溺死したら、あまりに恥ずかしいよなぁ、と余計な心配をしてしまったシーン。 一方でロウの見所は、ビンセントの素性がバレそうになったとき、それを隠す工作をすべく、必死の形相で螺旋階段を腕だけで上っていくシーンかもしれない。本当に下半身不随のように見えるところ、そして、こういった肉体的にも難しい役を好んで引き受けるところが、役者ロウの凄さ。 話をマジに戻すと、遺伝子至上主義の社会という設定を通して、今の時代にも通じるいわれのない差別を告発した作品でもある。体制に従って生きる人々も実は内心、違和感を感じている。そうした市井の市民の反発心が、ビンセントの夢の実現に一役買っていたということも、最後になるとわかってくる。人の人生を決めるのは、生まれ持った素質だけではない、少なくともそう信じたいし、信じるべきだというメッセージが、この作品には込められている。 そして、断固たるラストシーン。「あるべき」自分になれなかったジェロームを包み込む炎が、「こうありたかった」自分になったビンセントを宇宙へ送り出すロケットの推進力となる。 ジェロームは最後まで、あるがままの自分を受け入れることを拒否する。そして、誰にも告げず、誰とも孤独を分かち合わず、ビンセントにも嘘をつき、自分1人でプライドに殉じることを選ぶ。 ビンセントの物語でありながら、ジェロームの物語でもある。途中からそうなってしまうのは、ひとえに演技のカリスマ、ジュード・ロウのダイアモンドのような魅力ゆえ。センターポジションに置かれなくても、あまりに輝いてしまうので、主役だとか脇役だとかいった概念は、単に便宜上の区分に過ぎないと思えてくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.04 19:06:37
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