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カテゴリ:Movie(ジュード・ロウ)
ジュード・ロウがスターダムにのし上がっていった課程には、3つの段階があると思う。
舞台『恐るべき親たち』のミシェルでホップして 映画『オスカー・ワイルド』のボジー(アルフレッド・ダグラス卿)でステップして 映画『リプリー』のディッキーでジャ~ンプ ディッキー役で英国アカデミー助演男優賞を受賞、米国アカデミー助演男優賞にノミネートされてからのロウの活躍については、言うまでもないだろう。『リプリー』で74万5000ドルだったロウの出演料は、ミンゲラとの次作『コールドマウンテン』で1000万ドルに跳ね上がっている。このギャラの上がり方は、『太陽がいっぱい』でのアラン・ドロンを彷彿させる。 『恐るべき親たち』『オスカー・ワイルド』『リプリー』の3作で、ロウが演じたキャラクターは、不思議なほど共通している。彼らは皆エキセントリックで、感情のブレが激しい。そして、その性格によって悲劇的な結末をみずから手繰り寄せてしまう。 ミシェルを演じたからこそボジーの役が来たのだろうし、ボジーを演じたからこそディッキーの役が来た。脚本家が前の作品でロウの演じたキャラクターに、何かしらの影響を受けている可能性も否定できない。 たとえば、『オスカー・ワイルド』でのこのシーン。 眠るボジー(ロウ)をオスカー・ワイルドが凝視している。『リプリー』『コールドマウンテン』『こわれゆく世界の中で』と、ロウを3度連続して起用したミンゲラ監督は、このイメージを全作に滑り込ませている。 『恐るべき親たち』を書いたジャン・コクトーも眠る男のイメージを、繰り返しデッサンにしている。 『恐るべき親たち』はもともとコクトーがジャン・マレーのために書いた戯曲。マレーが「泣いたり笑ったりして極端な役をやりたい」と言ったことで、ミシェルというキャラクターが生まれた。 元祖ミシェル(ジャン・マレー)も、 キレて怒鳴ったり… 涙を浮かべて、子供のようにすがったり… 身もだえながら泣きじゃくり、母親に慰められたりするが… 『オスカー・ワイルド』のボジーも イラついて激昂したり、 オスカーの胸の中で涙にくれたり… 実も世もなく泣き伏して、オスカーに慰められたりする。 ミシェルという極端な若者を演じたことが、ロウにとってはボジー役のレッスンになったのは間違いないだろう。 『オスカー・ワイルド』の脚本は、『アナザー・カントリー』のジュリアン・ミッチェル。『アナザー・カントリー』のガイもそうだが、ミッチェルは少数派のセクシャリティの持ち主を、プライドが高く傲慢な、人格障害すれすれの破綻した性格と結びつけて書く傾向がある。ゴッホを主人公にした脚本も書いているから、あるいはミッチェル自身が、狂気をはらんだ異常な精神に惹きつけられるのかもしれない。 『オスカー・ワイルド』のボジーは、身勝手な父親と息子を甘やかすだけの母親に育てられ、他人を思いやることのできないワガママな暴君になってしまった青年。求めても得られなかった父親からの無償・無限の愛を、ボジーはオスカーに求めようとする。 初登場シーンでは… 初めから挑発的なキラー目線、誘惑する気満々でオスカーを待ち受ける。 イギリスの貴族文化が絢爛と花開いたビクトリア王朝時代の衣装や室内装飾も、この映画の見所。ボジーのイメージカラーはサーモンピンク。ウエストコートやガウンにこの色が使われ、それがボジーの明るい髪と瞳に呼応して映えている。 初対面でいきなり、通っている大学の教授を引き合いにして、中産階級に対する蔑みの言葉を口にするボジー。貴族ゆえの傲慢さだけのように聞こえるのだが、その裏にある心理が物語が進むにつれあぶり出されてくる。 実はボジーは… 身分の卑しい若い男の子に致命的に弱いというのが、真実。 ボジーがオスカーに最初にもちかける相談も、生まれは悪いが顔がキレイな男の子に宛てて書いた恋文をネタに、その彼からゆすられているというもの。 ボジーは誘われるのを待っている、受動的な美青年ではない。オスカーにも積極的に近づき、いわば「能動的破壊神」として、オスカーの運命を狂わせていく。 自身も詩を書くボジーは、流行作家のオスカーのたぐいまれな才能に憧れていた。オスカーを誘惑するために、惜しげもなくその美しいカラダを使うのだが… いったんオスカーを手に入れてしまうと、はるかに年上の中年男では自分のほうが肉体的に満足できなくなってしまう。 ボジーはオスカーに、「ボクは本当に君を愛してる。でも人生には刺激が必要だろ」「見てていいから」などとささやき、オスカーの面前で男娼と交わる。 道を歩いていても… 水に飛び込んで泳ぐ、溌剌とした若い男の子に思わず目がいくボジー。獲物を見つけた肉食獣の眼差し。 ボジーはオスカーの中に理想の父親像を見ている。そして、セクシャルではない、理想の愛の世界を一緒に構築したいと願う。だが、現実には2人は一緒にいると衝突するようになっていく。 それでも、離れていると… と真剣に思うボジー。 オスカーという「父」を得て、ボジーは実父に復讐を仕掛けるのだが、逆にオスカーとボジーの関係がスキャンダルとなり、オスカーが刑務所に。 オスカーと鉄格子で隔てられて初めて、真剣に永遠の愛を誓うボジー。 Mizumizuがこの作品で、もっとも胸を打たれたシーン。 ボジーというキャラクターは、あまりに身勝手でエキセントリックで、言ってることとやってることが違うために、観客の共感は得られにくいのだが、彼は頭で思い描く観念的な理想の愛と、現実に自分の欲望が向かう先とのギャップに引き裂かれ、常にどこかで自分を恥じている人間。それが抑えがたい攻撃性となって、もっとも自分に寛容な相手に向かってしまうのだ。そうやって愛する人を傷つけ、自分も傷ついている。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.09 04:57:03
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