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カテゴリ:Movie(ジュード・ロウ)
<きのうから続く>
1人の芸術家を破滅へと導いた美神といえば、やはりルキーノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』のタジオ(ビョルン・アンドレセン)。『オスカー・ワイルド』の監督がヴィスコンティのこの作品を明確に意識していたかどうかは不明なのだが、ボジーを見ていると、どうしてもタジオを思い出す。むしろボジーは、ヴィスコンティの作り上げた美の化身タジオのアンチテーゼではないかとすら思う。 この2人のキャラクターは、フィルムのポジとネガのよう。初登場のシーンとラストシーンが特にそうだ。 『ベニスに死す』で主人公のアッシェンバッハがタジオを見初めるシーンでは、タジオのカットが3つ使われるのだが… タジオはあくまで、ホテルの客の中の1人。当然ながら、彼に目を留めるアッシェンバッハをまったく意識していない。 2つ目のカットがこれ。どこを見ているのかわからない、物思いにふけったような視線。 3つ目のがこれ。カメラはアッシェンバッハの視線となり、タジオを見つめる。2番目と3番目のショットでポーズが変わっているので、タジオが動いたことが暗示されているのだが、動き自体は映っておらず、このシーンのタジオも一幅の肖像画のよう。そして、相変わらず自分を見つめるアッシェンバッハには気づいていない。 『オスカー・ワイルド』でオスカーとボジーが出会うのは、やはり招待客でさんざめく劇場のパーティエリア。オスカーに友人が近づいてきて、向こうにいるボジーを顎で指して、「僕の従兄弟のアルフレッド・ダグラスが、君を紹介してくれって」と話しかける。 オスカーが視線をやると、その先には… 強い視線でオスカーを待ち受けるボジー。このときやはり、カメラがオスカーの視線と一致し、群集の中で佇むボジーに、ぐっと焦点が当たる。 同じようなシチュエーションで、対照的な眼の表情。『ベニスに死す』と『オスカー・ワイルド』の美神の登場は、やはりフィルムのネガとポジのようなのだ。 そして、ラストシーン。 『オスカー・ワイルド』のラストは、一種のハッピーエンドになっている。刑期を終えて出所したワイルドがボジーに会い、結局数ヶ月で完全に破局してしまうのは事実なので、そこで終わらせるのかと思いきや、映画では、オスカーが周囲の反対を押し切り、イタリアでボジーと再会するところで終わっている。 イタリアの瀟洒なホテルの前で、ボジーを見つけたオスカーは、急にモジモジして物陰に隠れてしまう(苦笑)。 でも、ウスラでっかいお体のせいか、すぐにボジーに見つかる(再苦笑)。 ナレーションはこのあたりから、ボジーと別れたあとのオスカーの心境を語ったものになるのだが、映画の幕切れシーン、映像としては、あくまで感動の再会。 オスカーの気配を察したかのように振り返ったボジーは、この映画の中で最高の笑顔を見せて、手ひどい代償を払わせた愛しい相手に呼びかける。 「アンドレ!」 ♪バラはバラは、美しく咲ぁいぃ~て~(いけね、そりゃ別の話だった)。 お互いに歩み寄り、抱き合う2人。ここにいかにもオスカー・ワイルドにふさわしい、逆説的な格言がナレーションでかぶさる。 曰く、「この世には2つの悲劇がある… …それを得た悲劇」 人は普通、望むものが得られないことが不幸であり、望むものを手に入れることがすなわち幸福だと考えている。 だが、実際には、より大きな悲劇は、望むものを手に入れたことで起こるのだ。オスカー・ワイルドの悲劇は、まさしく、ボジーという美しき破壊神を得てしまったことで起こった。 だが、映画『オスカー・ワイルド』はあえて、オスカーとボジーの完全な破局までを追いかけず、互いにつらく、痛みの多かった2人の交わりの中で、ごく稀にあった幸福な一瞬で物語を止めている。ここにあるのは、過去を乗り越え、他者と積極的に関わろうとする2人の人間の姿だ。 『ベニスに死す』のアッシェンバッハとタジオは違う。タジオはやがて、自分を追い回す男の存在に気づき、ちらちらと視線を投げたり、話しかけられるのを待つかのようなしぐさを見せたりする。アッシェンバッハも空想の中ではタジオに触れ、タジオと関わろうとするが、現実には声さえ、ついにかけることはない。 そこにあるのは、まぎれもない老いの姿だ。人はごくごく若いころは、他者と関わることに自信がもてず、いわば蓑虫のように、自分の世界に閉じこもっている。だが成長するにつれ、社会と、そして人と、積極的に関わろうとする。やがて老いてくると、人と人がそう簡単に分かりあい、分かち合うことはできないのだと悟ってしまう。そうして、再び人は蓑に隠れる虫のように、老いの孤独に閉じこもるようになる。 アッシェンバッハを演じたダーク・ボガートはそれほど老人ではなかったが、アッシェンバッハの精神は、どうしようもないほど老いの境地に達しているように見える。 アッシェンバッハにとってタジオは、美の象徴だが、彼はそれを基本的に眺めているだけだ。そして、徐々に彼の肉体に忍び寄る死の影。アッシェンバッハはタジオを追い回すことで死を追い回している。だから、タジオはアッシェンバッハを崩壊させる美しき破壊神には違いないが、あくまでそれは1つの象徴、化身であって、タジオが現実にアッシェンバッハに何かしたわけではない。 そして、ラストシーン。台詞はなく、耽美な音楽と映像だけがある。 アッシェンバッハの見つめるタジオは、どんどん彼から遠ざかる。明るい髪が光る水面の輝きに溶けそう。 タジオは一瞬立ち止まり、横顔を見せ、アッシェンバッハのほうを振り返ったようでもあるが、その動作はシルエットになってしまってよく見えない。 遠ざかるばかりのタジオ。 砂浜におかれたカメラが、タジオとの距離感を出している。沖に浮かぶ船のほうへ、少年の姿はなおも遠ざかり、それと共に理想が遠ざかり、記憶が遠ざかり、人生が遠ざかる。そして突然アッシェンバッハの視界は途切れ、彼は死の世界へ旅立っていく。 自分を見つめる芸術家の視線に気づき、振り返り、微笑み、嬉しそうに名前を呼んだ『オスカー・ワイルド』のボジー。自分を見つめる芸術家の視線を知ってか知らずにか、無言のまま、どんどん1人遠ざかった『ベニスに死す』のタジオ。 やはりこの2人の美神は、1つのイメージのネガとポジのように見えるのだ。 役者としてこの2人がたどった道も対照的だ。たいして演技経験のないまま、20世紀を代表する名監督の執念によって、美の化身にされてしまった少年は、その後、「この映画に出ることで自分の身に起こることをあらかじめ知っていたら、決して出なかっただろう」と語っている。ビョルン・アンドレセンはその後、「世間に出ない音楽家になった」と言われているが、要するに、引きこもりに近い人生を長く送ることになる。 10代のころから役者を志し、20代半ばにはすでにかなりの演技経験を積んでいたジュード・ロウのほうは、ボジー役をステップにして、飛躍的に役の幅を広げていっている。 『真夜中のサバナ』では、アメリカ南部の町一番の男娼役。 初登場シーンでは、愛車のカマロを磨いている。 ボジーの生まれとはあらゆる意味で対照的な、育ちの悪いアメリカ青年役。与太った歩き方が、いかにも品がない。 ラストでは、自分を手にかけた男に復讐するために、あの世から戻ってくる。復讐を果たし、 まるで吸血鬼さながらの不気味な笑顔。 と思ったら… 『クロコダイルの涙』では、スバリ吸血鬼役をやってました。 泣いたり、笑ったり、キレたりという感情のブレの激しさで、『恐るべき親たち』のミシェル役に多分に重なるボジー役。奇妙な偶然だが、『オスカー・ワイルド』のフランスでの公開は1998年10月7日。元祖ミシェルのジャン・マレーがこの世を去ったのは、それからほぼ1ヶ月後の1998年11月8日。ロウの映画は1998年に、フランスで3本も封切られている(『オスカー・ワイルド』『真夜中のサバナ』『ガタカ』)。 俳優としてのスタイルで見ると、ジュード・ロウは、ジャン・マレーというよりむしろジェラール・フィリップに近いように思う。ジェラール・フィリップの演じた『肉体の悪魔』のフランソワは、そのエゴイズムも含めて、現代の欧米の恋愛映画によく見る、恋する青年の原型のようなキャラクターだった。 だが、高校を中退して演劇の世界に飛び込んだロウの決意は、ジャン・マレーの演技への情熱と見事に重なる。マレーも高校を中退になっているが、そもそも大学に行く気はなく、役者になりたくて中退したいと母親に言ったものの聞き入れてもらえず、反抗心から女装して騒ぎを起こしたことが原因だった。ロウのほうは、その時のマレーとほぼ同じ年のころ、『The Casebook of Sherlock Holmes』に女装したチョイ役で出ている。 マレーは晩年、南仏に住み、絵画・彫刻・陶芸の制作に没頭したが、ロウも暖かいところで、絵を描いたり、音楽を聴いたりといった生活が好きだと言っている(ロウのインタビューについては、こちらのブログを参照させていただきました)。 今年はロンドンとデンマークで『ハムレット』を演じるロウ。舞台ではフランスのシェークスピア、ラシーヌの古典劇を得意としたジャン・マレーの歩んだ役者人生と、やはりどこかダブって見えるのは偶然だろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.11 05:33:08
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