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<先日のエントリーから続く>
ローラン・プティがルドルフ・ヌレエフと初めて出会ったのはウィーン。ヌレエフが故国を捨てる数ヶ月前のことだった。プティもヌレエフも同じ芸術祭に招かれ、それぞれのバレエ団の主宰者と専属ダンサーとして参加していた。アプローチをかけてきたのは、ヌレエフのほう。プティは宿泊先のホテルを伏せていたのだが、ある日、終演後にプティの後をつけてきたソ連(当時)人のダンサーがいた。彼は自己紹介すると、満面に笑みを浮かべてプティのバレエを賞賛し、ヘタな英語で、「またお会いしましょう」と言った。 ヌレエフはフランスで亡命。プティはニュースで彼の顔を見て、それが数ヶ月前ウィーンで自分に会いに来た若者だということに気づいた。天才ダンサーはロンドンに渡り、マーゴ・フォンテーンの相手役として一世を風靡し、その名声は瞬く間に世界中に広まっていった。 彼が出現する前は、バレエはまだまだ一部のブルジョアのための芸術だった。だが、ヌレエフがバレエ人気を真に大衆的なものにした。これまでバレエとはまったく縁がなく、何の関心も示さなかった田舎の主婦までが、フランク・シナトラやエルビス・ブレスリーを語るように、ヌレエフの噂話をし、ヌレエフに夢中になった。 公演先でたびたび起こすスキャンダルも、ヌレエフのアイドル化に拍車をかけた。プティが聞くヌレエフについてのニュースといえば、カナダで警官のズボンに手を突っ込んだとか、コールドバレエのダンサーに暴力を振るったとかいった、よからぬ話ばかりだった。 ルックスだけで言えば、ヌレエフには際立ったところはなかった。だが、ひとたび捉われてしまうと、抜け出せなくなる魅力があった。やがてプティは、そのことを身をもって知ることになる。 ヌレエフと自分のために新作バレエを作ってほしいとプティに依頼に来たのは、フォンテーンだった。プティはロンドンに向かうが、最初のうち仕事はうまく行かなかった。いや、プティとヌレエフは仕事の面では終生軋轢を繰り返している。要するに振付師プティとダンサー・ヌレエフは、本来あまり相性がよくなかったのだろう。プティのバレエはしばしば見るが、洒脱でいかにもフランス的なプティの作品を、「ヌレエフが踊ったら」と考えても、あまりしっくり来ない気がする。 このときプティは心身のバランスを崩し、いったんフランスに帰国する。疲れたプティを癒してくれたのは、妻のジジ・ジャンメールだった。ほどなくモチベーションを取り戻したプティは、再びロンドンに向かい、彼より14歳も若いスーパースター、ヌレエフに合わせ、彼の気に入るような振付をした。つまり、振付師プティはヌレエフに対しては、最初から妥協したのだ。 とにかくヌレエフは踊りに関しては、このうえなく頑固で、石頭だった。プティの指示を素直には聞かない。 プティ「今のところ、3回繰り返して踊れるかい?」 ヌレエフ「できるかよ。せいぜい1回だね」 ↑ いちいちこんな感じ。 このときは、プティが怒って立ち去ると、翌日ヌレエフのほうが折れてきた。こうして2人は衝突を繰り返しながら、徐々に互いの距離を縮めていく。 そんな折、プティの母親がロンドンにやって来た。慣れない外国で仕事をしている息子の食事の面倒を見るためだ。 ところがプティの母親は、1人で夕食をとるハメになった。そのころ、ヌレエフは車を手に入れており、朝プティを迎えに来て、夜は家まで送ってくれていたのだが、プティはいったん帰宅しても、母親の手料理は食べずにまた出かけてしまう。実は、送ってくれたヌレエフと再び外で落ち合い、一緒にロンドンの夜の街を遊び回っていたのだ。 母親は数日で帰国してしまった。それからのプティとヌレエフは、ますます離れがたくなり、朝から晩まで一緒に過ごし、プティがヌレエフの家に泊まることもしばしばになる。「私の魂は彼によって稲妻に打たれたような衝撃を受けた」と、プティは『ヌレエフとの密なる時』に書いている。 プティを驚かせ、ある意味で呆れさせたのは、ヌレエフの乱れきった夜の私生活だった。彼はプティをさまざまないかがわしい場所に案内する。ヌレエフは精神的な欲求を抑制することのほとんどない性格だったが、肉体的欲望に関しては、輪をかけて素直で、ブレーキをかけることは皆無だった。彼の一夜の愛人になることはまったく簡単で、ヌレエフにとってそれは、手を洗う程度の意味しかもたなかった。 ロンドンでプティとヌレエフのコラボレーション第一作となったのは、『失楽園』というバレエだったが、ゲネプロのころには、ダンサーのヌレエフが勝手に振付を変えてしまい、もはやプティの作品とは言いがたいものになっていた。初日の夜、心配するプティに対して、ヌレエフは、 「心配ないよ。今日はもう3回もヤったから、僕は絶好調」 などと言って、プティを赤面させる。 作品はプティのものではなくなっていたが、公演は大成功だった。1960年代の終わり――このころのヌレエフはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。どこで何を踊っても観客は総立ちで大喝采。ヌレエフはどんどん仕事を増やし、70年代に入ると、年間250回に及ぶ公演をこなすようになる。舞台に立つ時間は750時間。それはつまり、その2倍以上の時間を練習とリハに費やしていることになる。 ヌレエフはまさに、暴君のように肉体を酷使していた。公演を終えるとお付きのマッサージ師が始めるのは、ヌレエフの身体に巻かれた数十メートルにおよぶ粘着テープを引き剥がすことだった。 ヌレエフの情熱は、バレエだけに向けられており、それはほとんど宗教的なものだった。どれほど放埓な夜を送ろうと、朝10時には必ず稽古場に来て、基礎からの練習を怠りなく繰り返す。 だがプティは、ヌレエフの公演回数が多すぎると感じていた。事実、ヌレエフの舞台は、次第に質にムラが出るようになる。プティがそれをヌレエフに指摘すると、ヌレエフは激怒して暴れた。 2人の間にはっきりと亀裂が入ったのは、新作バレエ『オペラ座の怪人』(マルセル・ランドウスキー作曲)を準備しているときだった。 最初の予定では、ダンサー・ヌレエフがこの新作バレエに割く時間は6週間だった。振付師のプティにとって、新作の準備期間としては、それでも短かった。 ところが、多忙をきわめるダンサーの都合で、6週間は5週間に、そして4週間に、しまいには2週間になってしまった。 業を煮やしたプティは、ヌレエフとの間に入っているエージェントに、長編バレエをこのような短い期間で創作するのは無理だと伝えた。 すると、ヌレエフは忙しい公演のスケジュールをぬって、遥か彼方から飛行機でプティのもとに飛んで来た。だが、もちろんプティの言うことを素直に聞くタマではない。わずか1時間の話し合いで、 「それなら、別のダンサーに躍らせろよ。僕なら1週間もあればできるけどね」 と捨て台詞を残して、流れ星のように去ってしまった。 プティは、ヌレエフについて、「ジュピターのように移り気」だが、同時に「ジュピターの妻ユノのように貞淑」だったと書いている。 新作バレエの話が流れたとはいえ、2人はプライベートでは友人であり続けた。プティが病気で倒れたときは、毎週金曜日の夜に電話をかけてきて、 「君がそうしてほしいなら、明日飛行機で君のところいって、一緒に週末を過ごすよ」 と言ってくれた。 一方で、こんな話もしている。 「チューリッヒでさ、公演の後、すぐに寝る気になれなかったんだ。ぶらぶらしていたら、好みのタイプに会った。ホテルに連れて行けなかったから、湖の広がる茂みで愛し合った。すばらしく衝撃的だったよ」 プティという人は、ヌレエフにこういう話をされると、非常に気になるのだ。数ヵ月後、チューリッヒに行ったプティは、わざわざそのホテルの近くを歩き回り、「湖の見える茂み」を捜したりしている。結局、「できそうな」場所は見つからなかった。なので、プティは、「あれは作り話かな?」などと思いをめぐらしている。 そう、プティはヌレエフに夢中だったのだ。プティはたとえば、俳優のヘルムート・バーガーのように、ドン・ファンのリストならぬヌレエフのリストに名を連ねるつもりはなかった。プティの望みは、ヌレエフにとって「唯一の存在」になることだった。 つまり、ヌレエフから「最高の振付師」と言われたかったのだ。だが、ヌレエフはずいぶん長い間、別の振付師に心酔していて、プティの前でも彼のことを褒めちぎってプティをウンザリさせていた。 仕事では軋轢があったとはいえ、プライベートでは続いていた2人の関係。そこに壊滅的な亀裂が生じる事件が起こる。場所はニューヨーク。メトロポリタン歌劇場でプティが、マルセイユ国立バレエ団の引越し公演を行ったときだった。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.31 03:42:22
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