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カテゴリ:Travel(ハワイ・NY)
芸術というのは所詮は嗜好品なので、奇妙なほど偏愛する作品もあるし、どれほど世間が評価しようとサッパリ興味のわかない作品もある。たとえて言えば、ドリアンが好きで好きでたまらないとか、ドリアンだけはどうしても食べる気になれないとか、そういった嗜好と同じことだろう。
こうした好き嫌いたぶんに生理的なもので、ドリアンという果物自体がもっている価値とはかかわりがない。受け付けない人に向かって、無理に素晴らしい素晴らしいと押し付けるのもおかしいし、といって、こんなもののどこがいいのかと愛好する人を白眼視するのも愚かなことだ。 Mizumizuの場合は、どうにもダメなのがエゴン・シーレ。逆に偏愛しているのがギュスターヴ・モロー。 生まれて初めて行ったパリで、まず足を運んだのはルーブルではなく、ギュスターヴ・モロー美術館だった。モローを愛好するきっかけになったのが、中学生ぐらのときに図版で見た「オイディプスとスフィンクス」。 NYのメトロポリタン美術館所蔵だということを、長いこと忘れていて、パリのギュスターヴ・モロー美術館に行ったとき、習作らしきものがあるのに、なぜ図版で見た完成品がないのかと、いぶかしく思った。 それだけに、メトロポリタン美術館で、ふいにこの作品に出くわしたときは、長いながい空白のあと、初恋の人に思いがけず出会ったような衝撃を覚えた。 モローは、このきわめて古典的に整った構図の作品を完成させるまでに、何度も習作を繰り返している。モロー美術館には、全体のデッサンや、細部のディテール、それにほとんど完成に近い油絵などが展示されていた。 完成作品だけが、海を越えてアメリカに行ってしまったということだ。このように芸術作品が世界中に散らばるのは、当然と言えば当然のことなのだが、ある意味でとても残念なこと。 というのは、まず第一に、大きな美術館でモローの作品がたった1つ、他の作品に交じって展示されていると、インパクトが弱くなってしまうからだ。 澁澤龍彦は、「モローのスフィンクスは猛々しい『宿命の女』のヴァリエーション、青年オイディプスはむしろ『美しい無力』を代表する者でしかない」と書いたが、つまりは、男性が女性という異なった性に抱く、根源的な畏怖の念、いやむしろ得体の知れない恐怖感に近い感情が反映されているように思う。 そもそも「宿命の女」自体、男性が作り上げた空想上の女性なのだから。 物理的な意味では至近距離から、見詰め合う男女の間には、親密さや調和を求める柔らかな感情ではなく、対立から来る緊張感とある種の「遠さ」がある。ギリシア神話をモチーフにしつつ、男と女という異なった性の間に普遍的に横たわる、縮めることのできない心理的な距離感を表しているように思う。 スフィンクスはオイディプスに謎を掛け、オイディプスがそれを解いたことで自死を遂げるが、その実彼女は、彼がその後辿る悲劇的な運命を知っているようでもある。肉食獣の身体に猛禽類の羽。オイディプスの身体に爪を立ててはりついたケモノのスフィンクスは、顔だけが美貌の若い女性で、大きく見開いた目と舌を出しかけているような唇は、猛々しいというだけでなく、青年を嘲っているようでもある。 対してオイディプスは、彫刻のように均整の取れた肉体に、人形のように端整な顔立ちをもつが、小さなスフィンクスの全身から漂うまがまがしさと対比したとき、この背の高い半裸の青年は、存在そのものがあまりにも脆弱なのだ。 「オイディプスとスフィンクス」と近似したテーマをもつモローの作品に、オルセー所蔵の「オルフェウス(死せるオルフェウスの首を抱くトラキアの娘)」がある。 ここに描かれているのも、男と女の間にある埋まることのない隔たりだ。オルフェウスは、妻エウリュディケを永遠に失ったあと、言い寄る女性たちに見向きもせず、それを恨まれて祭りの狂乱騒ぎの中、八つ裂きにされ、ヘブロス川に投げ捨てられてしまう。 竪琴とともに流れ着いた彼の首をトラキアの若い娘が拾い上げる。モローの描いた青白いオルフェウスは、無言のまま接吻を待っているかのよう。目を伏せたトラキアの娘の静やかな優美さは、身の毛がよだつほど。そこにあるのは、悼みなのか、哀切なのか、はたまた充足なのか――まるで能面のように見る者によってその感情を幾重にも映し出す。 この2つが並べて展示されれば、双方のもつ根源的なテーマが共鳴しあい、より大きな衝撃となって見る者に響くはずだ。 ギリシア神話に想を得た、極めて古典的でリアルな描写でありながら、描かれているのは、ありうべからざる幻想。それでいて根底にあるテーマは、男と女が存在する限り不変のものなのだ。 それがパリとニューヨークに遠く隔てられて展示されている。他の作品にまぎれて、ヘタをしたら見逃してしまいそう。 もう1つ残念だと思う理由は、たとえば「オイディプスとスフィンクス」をモロー美術館に飾り、作品の楽屋裏とも言えるエチュード群と一緒に見ることができれば、芸術家が1つの作品を仕上げるまでに、いかに試行錯誤を繰り返したかが手に取るようにわかるだろうと思うからだ。 こうした課程を知る必要はないと思う人もいるかもしれないが、1つの名作が出来るまでに、1人の人間がいかに苦心し、紆余曲折を経たかを知るということは、単なる鑑賞者にとっても、表現を志す人間にとっても、意義深いことではなかろうか。 モローはまるで憑かれたように、「オイディプスとスフィンクス」に取り組んでいる。だが、エチュード群だけが残され、完成した作品が海の向こうに行ってしまったことで、ギュスターブ・モロー美術館を訪れた見学者は、謎解きの途中で終わってしまったミステリーを読まされているような気分になるのだ。 閑話休題。 美術館の楽しみは、単にお目当ての作品を実際に見ることだけではない。これまで知らなかった作品に、いきなり魂を鷲づかみにされたようになるのも、たとえようもなく楽しい体験だ。 今回のMizumizuの場合は、これ。 ヘレニズム期のブロンズ像「眠るエロス(キューピッド)」。小デブなキューピッド君の、リラックスしすぎのあんまりな寝姿。日本語の「エロス」の語感と離れすぎでしょ。 お腹の贅肉の流れ方や、太ももの肉の張り具合。デブいから足が開いちゃってる。そしてなぜかきゅっと立った、短く太い足の親指のかわいらしさ。警戒心ゼロのあどけない顔の表情。いかにも、「あ~、疲れちゃったな。ちょっと休もうっと」と横になり、そのまま眠り込んでしまったといわんばかりポーズ。 あまりによくできていて、思わず、 「もしもしキューピッド君、何百年寝てれば気が済むの? そろそろ起きなよ」 と話しかけたくなった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.25 17:10:43
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