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カテゴリ:Travel(フランス)
ジャン・コクトーは「天使」のイメージについて、以下のように述べている。 「天使は人間性と非人間性のちょうど真中に位置している。それは潜水夫の力強い動作と、千の野鳩のすさまじい羽音に似て、見える世界から見えない世界に飛んでいく、輝かしい、可愛らしい、力強く、若々しい動物だ」 「天使にとっては、死は不可解である。彼は生きている者を圧し殺す。そして、魂を平気で奪い取る。彼には拳闘家と帆前船の性分があるに違いない、と僕は想像する」 「僕達はここで、合掌し、金と百合の翼を持ち、星を戴いた、砂糖製の両性神(エルマフロディット)からは遠く離れている。<鷲のように天から飛びかかってくる>猛々しい天使、ドラクロアの描いた天使、翼を規則正しく描かなかったために教会から罰せられたグレコの天使たちを見たまえ。僕達は皆、天使たちの墜落や、その子孫である巨人たちの誕生、またリュシフェルの罪などに関する、すべての聖書に欠けているページ、完全なキリスト教神話にノスタルジーを感じる。……無私無欲、エゴイズム、やさしい憐憫、残酷、交際嫌い、放蕩のなかの純真、地上の快楽にたいする激しい好みと、それにたいする侮辱の混合、無邪気な背徳。諸君、間違えてはいけない、これらにこそ僕達が天使性といっているものの印がある」(職業の秘密)」 詩人はここで自身の描く天使の身体的イメージと精神性について書いているのだが、コクトーにとっての天使は、シュガーメイドの両性具有的な存在ではない。天使たちはどこまでも強靭で雄々しい男性的な肉体をもっている。そして、人間性と非人間性の中間に位置するがゆえに、「死」を理解せず、結果無邪気に人間の魂を奪い去ってしまう。無私でありながらエゴイスティックで、やさしくも残酷で、孤独でありながらも放蕩児・・・・・・そうした分解不可能な純粋精神、「無邪気な背徳」のなかにコクトーは天使性を見ている。 こうした「ジャン・コクトーの天使性」を線と色で表現したのが、ヴィルフランシュにあるサン・ピエール礼拝堂壁画だ。 これは、サン・ピエール礼拝堂で売られている絵葉書をスキャンしたもの。現地は内部撮影は禁止。 壁面を飛び回る天使は、たくましい四肢をもった成熟した青年の肉体をしている。右側の天使たちは、高速で天空を自由に移動している雰囲気が実によく出ている。 「鳥獣戯画」の国の人間から見ると、西洋画家の描く「線」には、無機的な印象を受けることが多いが、コクトーの「線」には、のびのびとした生気がある。あたかも、一気呵成に仕上げたように見えるが、実際には1つのイメージを作るのに、下絵を100枚近く描いては捨てることもあったという。 だが、コクトーの「線」はどこまでも自由で、そうした努力をほとんど観る者に気づかせない。 衣の襞や、とげだらけのサボテンの乾いた質感、草のしなる風情など、よく描けている。ヴィルフランシュの風俗を取り入れつつ、人物像の目が魚の形になっているなど、マンガチックともいえる発想の面白さも光る。この人物像は、漁師が使う網を衣のように羽織っているのだが、背中を出したその網のはだけ方がなまめかしい。耳飾りをつけているというのも、奇妙なほど今風にセクシーだ。
横たわる髭の人物像(聖ペトロ、つまりはサン・ピエール)を基点にして、天使たちの翼が渦巻きを構成するように配置されいてる。色彩を極力抑えることで、淡い黄色のトーンが生きている。 この空中での渦巻き構成は、15世紀の傑作、マルティン・ショーンガウワーの「聖アントニウスの誘惑」(聖アントニウスを邪悪な悪魔が誘惑する図)のアンチテーゼに違いない。 しかし、この礼拝堂・・・ ご覧のように、ホテル・ウェルカムとは文字通り目と鼻の先の距離にある。ところが、開館時間をホテルのフロントに聞いたところ、 「季節によって違う。ドアのところに張り出してあるから見て」と言われたのだ。 「普通は10時からなの? 昼休みは2時間?」 と聞くと、微妙な表情でなにやら曖昧なことを言っている。こんなに近くの、しかもコクトー壁画の観光スポットの開館時間をコクトーゆかりのホテルが知らないなんてワケはないはずだ。 また、何かあるんじゃ・・・ そして、それは現場に行って初めて明かされるんじゃ・・・ フランス人お得意の「ギリギリまで教えない、こちらにとっては不利な現状」があるのでは、と思って礼拝堂に行ったら、案の定だった。 10時から開館にはなっていたのだが、なんとなんと! 中がモロに修復中だったのだ!! しかも一部修復なんてもんじゃない。足場が礼拝堂内部のほぼ全体にわたって組まれ、はっきり言ってほとんど見えない状態。「雨漏りが原因」とかなんとか、受付のおばさんが言っていた。 これで、2.5ユーロ取って見せるか? 閉めて修復に集中して、それがちゃんと完了してから開館すべきレベルだ。しかも、「修復には、XXXXユーロかかるので寄付を」と、入場料を払った上に、ほとんど壁画を見られないハメに陥る観光客にさらにタカろうとしている! これでホテルのフロントの曖昧な態度も合点がいった。「修復中です」その一言を言いたくないのだ。もちろん彼らは知っている。ほとんど見られない状態であることも。だが、事前にそれを知らせて、文句を言われたくないのだ。 こういうことはフランスではしばしば起こる。行ってみたら美術館が開いていない。修復のために閉館という情報が、ホームページをみてもすぐにわからないことが多い。どこかに書いてあるのかもしれないが、それがすぐわかる場所にはない。行ってみて初めて知るということになる。 頭にきたので、足場の裏に回って、なんとか見ようとすると、さっそく受付のおばさんが、「そっちはダメ」というようなことをフランス語で注意してきた。「わかんないわよ!」と英語で怒鳴ると、うるさい客の相手はしたくないとばかりに下を向いてしまった。さすがのフランス人も、多少は後ろめたく思っているようだ。 あのさ~、ジャン・コクトーの壁画は、フランスのれっきとした文化遺産だと思うよ。これを見るために、はるか東洋の小島から観光客がやってくるのだ。それほど集客力のある文化財の修復ぐらい予算を回しなさいよ。 3人子供を産めば働かなくてもいいぐらいの手当てを出すなど、愚民量産政策にバラまく予算があるんなら、貴重な文化財の修復にお金を回すべきだろう。寄付に頼るというのは、アメリカ式のやり方だが、アメリカとフランスでは「文化事業への寄付」に対する土壌が違う。 まったく・・・アメリカが嫌いなくせに、都合のいいところだけはちゃっかりマネしている。フランス(イタリアもそうだが)は、かつては美術館の入館料も安く、文化大国の余裕を感じたものだが、今は文化財は徹底的に観光ビジネスに利用し、観光客からは遠慮なくできるかぎりぶったくるシステムになっている。 寄付を募っているということは、修復予算のメドが立っていないということかもしれない。ということは、このひどい状態のまま、のんべんだらりと中途半端に修復しつつ公開を続けるのかもしれない。 なんて気の毒なジャン・コクトー! コクトーはフランスを偉大な国にした文化人に対する自国民の薄情さを、常に批判してきたが、まさに的を射ている。 この礼拝堂は、ヴィルフランシュの漁民に捧げたもので、「コクトーの誕生日には、ここで礼拝を行う」などと美談ばかり流布されているが、実はコクトーは、ジャン・マレーへの手紙で、地元民に対する不満をぶちまけている。 コクトーがサン・ピエール礼拝堂の壁画装飾を仕上げたのは1956年のことだが、その翌年の手紙。 1957年8月14日 ふたたび梯子に登ってみたものの、自分の仕事が本当にやるだけの価値があるかどうか、不安の頂点にいます。(中略)こうした悩みをますます強めているのが、ヴィルフランシュの漁師たちからこうむった悲しみと失望です。彼らはぼくが贈ったチャペルで豊かになった(入場者2万5000人)というのに、ぼくのことをまるで最悪の敵のように扱います。ぼくにはわけがわからない。ぼくが自由に人を連れて入れないよう、ドアに南京錠をかけることまでするのです。(「ジャン・マレーへの手紙」より) この敵対的態度の裏には、どうやら礼拝堂装飾に借り出された職人に対する賃金不払いのトラブルがあったようで、誰が最終的に報酬を支払うのかをきちんと関係者と取り決めないまま、コクトーが仕事を進めたのがことの発端かもしれない。 だが、詩人にとっては、この不払いトラブルは、「誰もかれも、ぼくの贈り物をタダで手に入れようとしている」状況に他ならなかった。自分が精魂かたむけて完成させた壁画で現地の人々が潤ったにもかかわらず、こうした態度を取られたことで、コクトーは制作意欲を削がれてウツになったのだ。「自分の仕事が本当にやるだけの価値があるかどうか、不安の頂点にいる」というのは、そんなコクトーの精神状態を端的に表している(そして、泣きつく先はジャン・マレー)。 <明日に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.06.17 23:20:04
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