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カテゴリ:フィギュアスケート(2017-2018)
オリンピック二連覇を狙う羽生結弦選手のフリーのプログラムが発表になった。「和」の要素を採り入れて評判のよかった『SEIMEI』。ショートはショパンのバラード第1番なので、曲だけに関して言えば、ショート、フリーとも「昔の名前で出ています」の、新鮮味のないものに。
同じ曲でもジャンプの構成は違うし、振り付けも変えてくるだろうから、それはそれで楽しみではあるが、羽生陣営としては、過去高得点をたたき出し、芸術性でも高い評価を受けた2作品をもってくることで、ジャッジに演技・構成点を下げさせないというのも狙いとしてあるように思う。 つまり、非常に勝負にこだわった選曲だな、と。 他の選手を見ても、選曲に新鮮味のないプログラムが多い。 日本期待の新星、本田真凛のフリーは、トリノの女王の曲で、バンクーバーの女王の振付師。特に振り付けはキム・ヨナ選手のプログラムに似すぎている。女王の系譜を継がせるという意味では力が入っているが、本田真凛という唯一無二の個性がどこにいるのか分からない。 すでに唯一無二の個性を発揮しているのは宇野昌磨選手だが、選曲そのものは、ヴィヴァルディとプッチーニの、フィギュアではよく聞く曲。 順位調節の一環としか思えない演技・構成点の不可解なアップダウンは、全体として選手の選曲や振り付けを保守的にしている。ジャッジの「愛」(苦笑)は、急に誰に行くか分からない。特にオリンピックシーズンには。だから、新しい冒険をするよりも、馴染みのある曲で、名の通った振付師で。実績のある選手なら、すでに評価を得たプログラムで。 高橋大輔選手や小塚崇彦選手の時代にはあった、「こういう曲があるんだ!」とプログラムを見て知る新鮮な驚きとその楽しみが、日本の有力選手の中から失われつつある。氷上の舞踏芸術としてフィギュアを捉えれば、これは残念な流れだが、今の採点の傾向を考えると、勝負に勝つためには、「誰も見たことのないような、まったく新しいプログラム」に常にこだわるのは、あまり意味がないということだろう。 どのみち、採点システムはオリンピック後に大きく変わるだろう。その意味でも、世界最高得点など、もう意味はないのだが(もともと、基礎点やルールが変わってる時点で、史上最高得点など意味のない数字だったが)、それでも、視聴者の興味を引くため、テレビ局が「出るか? 最高得点!」で盛り上げに来ることは見えている。 ヤレヤレ、付き合う選手もファンも大変だ。 「6点満点時代」にあった、「6」点が出た時の観客の熱狂と興奮を、世界最高得点で蘇らせようとしているのかもしれない。しかし、あのころとは決定的に違ってしまったものがある。それはジャッジの眼に対する人々の信頼だ。どのジャッジがどの国のどの選手に何点出したか明確に分かる時代は、ジャッジがあからさまに直接のライバル国の選手の点を低くつけたりしても、人々はそれを「不正」だとは思わなかったのだ。 今ほどはフィギュアにマネーが絡まなかった、という背景もあるかもしれない。 不正防止のために作られたシステムだが、その理想とは裏腹に、ジャッジへの信頼は地に落ちた感がある。インターネット時代になって、玉石混淆とはいえ様々な情報にアクセスできるから、人々が「大本営発表」をそのまま信じてくれなくなっているというのもあるだろう。 個人的にはバンクーバー時代に比べれば、今のほうがずっと採点はマトモに、つまりあのころよりは「より公平」に、なっていると思っている。その理由は何度も書いた。だが、そう思わない人もいるかもしれない。どちらにしろ、この世の中には誰もが納得できる「公平」などないと思ったほうが現実的だろう。その中でどう戦い、それをどう評価するか。それは選手個人とファン個人に委ねたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.08.10 15:27:33
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