ピューリタンの愛、カトリックの愛
<きのうから続く>やがてコクトーは起き上がれる状態にまで快復した。マレーは約束どおり、コクトーの腕を支えながら、庭の散歩の手助けをした。そんな2人の様子を、マルヌに頻繁に来るようになったキャロル・ヴェズヴェレールが見守っていた。「コクトーはジャノに支えられて、そろそろと庭を散歩していた。いつも彼の着ていた白いタオル地のガウンが緑の芝生をバックに浮かび上がり、私にはそんな2人が人類のために何かをたくらんでいる天使のように思えた!」(キャロル・ヴェズヴェレール『ムッシュー・コクトー』東京創元社、花岡敬造訳)だが、天使たちを見ていたのは、キャロルの暖かな眼だけではなかった。ある日、いつものようにコクトーと庭を散歩していると、隣接するサン・クルー公園の木の間から大きなカメラをこちらに向けている人影があるのにマレーは気づいた。――なんて、下品で破廉恥な連中だ!マレーは死ぬほど腹を立てながら、コクトーが彼らに気づかないうちに家に連れ戻す。コクトーは依然として重病には変わりない。盗み撮りされていないことを祈ったが、望遠レンズで撮られた写真は結局勝手に公表されてしまった。コットンの浴用ガウンは白いビロードの部屋着ということになっていた。マルヌに来る途中、盗み撮りされた写真の掲載された雑誌を街頭で見たキャロルも心を痛めた。「ジャン・コクトーとジャン・マレーと聞くと、みんな放っておいてくれないのね」「キャロル、写真のことは、ジャンには言わないでね」「もちろんよ。――サン・ジャンのサント・ソスピールはおかげさまで、死んだように静かになったわ。電話も鳴らないし、以前はムッシュー・コクトーあての郵便が山のように積まれていたサロンのテーブルにも、今はもう何も置かれていないわ」「フランシーヌは元気なの? こないだ会ったときは、咳をしていたけど」「咳は治らないわ。病気はもうママンの第二の天性よ」「そうか……」「――それにしても、ジャノ、あなたの献身ぶりには、私本当に頭が下がるな」「よしてよ、キャロル」「今度の看護婦はどう?」「よくやってくれているよ。2人で交替しながら、24時間態勢で看てくれてる」「それはよかった。最初の発作のときは――ほら、あのときもムッシュー・コクトーが病院を嫌がったから、うちで面倒を看たでしょう? 夜勤の看護婦を雇ったんだけど、彼女に夕食のあとコーヒーを勧めたら、まじめな顔で、『コーヒーを飲むと夜眠れなくなりますから』って言ったのよ」マレーは思わず笑った。キャロルも笑いながら、「そのときの看護婦の口真似をしてみせたら、ムッシュー・コクトーは大受けしちゃって…… ベッドの中で引きつけを起こすんじゃないかと思うぐらい笑いっぱなし」「ジャンは、笑うにしても、泣くにしても極端だからね。――昔、『椿姫』を観にいったときのこと、話したっけ?」「いいえ……?」「ジャンはそのときとても落ち込んでいた。ちょうどグレタ・ガルボの『椿姫』をやってるときだったから、一緒に観にいこうと誘ったんだ。映画館で悲劇に浸って、ひとしきり泣けばきっと心が晴れると思ったんだよ。――ところが、『椿姫』を観終わったあと、ジャンは泣きっぱなし。帰りのタクシーの中でも、レストランの中でも泣いていた」「人目もはばからず?」「まったくはばかる意思はなかったね。ぼくは一所懸命彼を慰めたんだけど、そしたら、周りは罪人を見るような眼でぼくらを見るし……恥ずかしかったな、あのときは」「ムッシュー・コクトーは、子供のようなところがあるわね」「そうなんだ。それは昔からなんだけど――最近もね……」「どうしたの?」「最近、ジャンはぼくに隠れて煙草を吸い始めたんだ」「あなたに隠れて?」「うん」「だって、阿片は吸ってるのに?」「それは許可をもらったつもりでいるからね」「煙草はダメなわけ?」「煙草を吸うとぼくにまた怒られると思ってるみたいだね。バレバレなんだけど、一所懸命隠そうとしてるのを見ると、どうしたもんかと……」「それって、怒るべき? それとも笑うべき?」「それをどっちにすべきか、君に意見を聞こうと思ってさ」2人はまた一緒に笑った。「……よくなってるってこと、よね?」「それはそうだよ。ずっとよくなった。きっともう少しで仕事を再開できるよ」キャロルは、心からほっとした。マレーを「ぼくの善良な天使」と呼ぶコクトーは正しいのだと思った。マレーからは、抗しがたい健康さと生命力が漂ってきた。それこそがコクトーを、1人で放っておくと閉じこもりがちになる密室の雰囲気から解放してくれる力であり、輝きなのだろう。「私が初めてあなたの素顔に触れたのも、ムッシュー・コクトーが最初に心筋梗塞で倒れたときのような気がする……」キャロルは思い出したように言った。「あのとき、あなたはハリウッドにいたのに、ドゥードゥーの電報ですぐに飛んで帰ってきたでしょう?」だが、キャロルの言葉はマレーに苦い情景を運んできた。ハリウッドから空港へ向かう道。クルマの中。運転席のジョルジュの沈んだ声。――君は大西洋の真ん中でロケをしてる。ぼくはアメリカ、ジャン・コクトーはフランスにいる。ぼくとジャンが同時に瀕死の事故に遭ったら、君はどっちに行くの?あのときに自分はジョルジュの何かを失ったのだ。ジョルジュはマレーより先に、答えを出してしまった。あるいは彼は、知っていたのかもしれない。敬虔なピューリタンが神と自分の間に何者の存在も許さず、神を愛するためには他の全欲求を放棄しなければいけないと考えるように、ジョルジュはマレーと自分の間に誰もいないことを望んだのだ。彼にとっては、それが愛であり、それ以外は受け入れがたい偽善だった。一方、マレーはあれかこれかの選択はしなかったし、別の誰かにその選択を求めたこともなかった。マレーは神を信じていた。その宗教的信念に揺るぎはなかったが、同時に自分が罪深い生活をしていることも自覚していた。自分が罪を犯さなくなるとも思えなかったが、それでも神に祈りを捧げることはやめたことがない。そして、そうした行為を偽善だと思ったこともなかった。何も知らないキャロルは話し続けた「ムッシュー・コクトーは、あなたの顔を見たとたん眼に見えて元気になった。あなたが来る前は、このまま快復しないんじゃないかと思うような状態だったのよ」「……」「――あなたは、ムッシュー・コクトーの枕元を離れなかった。あのとき私は、彼がどうしてあなたのことを『金の延べ棒みたいなハートの持ち主だ』って言っていたのか、わかった気がしたの」「プリンセス、ぼくはジャンのそばにいたかったから、いただけだよ。離れたくなかったのは、ぼくのほうなんだ」キャロルは頷いた。「それまで、私はムッシュー・コクトーとあなたのことをよく知らなかった。――あなたはスターだったし、ママンは少しあなたを怖がっていたもの」「フランシーヌがぼくを? なぜ?」「たぶん、ママンはあなたに影響力を及ぼすことができなかったからよ」「影響力?」「そう。ママンは美人だけど、あなたは映画や舞台でもっと美人の女優さんと一緒にいるし、ムッシュー・コクトーはある程度ママンの経済力を必要としたけど、あなたのほうはお金持ちで、ママンの力を必要としなかったからよ」「……」「ムッシュー・コクトーは、よくあなたの話をしてた。――それはなんだか、自立していく息子に対する母親の態度みたいで、何でもかんでも心配のタネになるらしかったわ。あなたが俳優としてのキャリアをダメにしないか、危険なロケで怪我をしないか、どうして自分の劇に出てくれないのか……」悪気のないキャロルの言葉に、マレーはギクリとした。「あなたが、ムッシュー・コクトーがあなたのために書いた『バッカス』の出演を拒んだとき、彼はすごく傷ついて、苦しんでいた。――ママンは私にこっそり言ったのよ。あなたは今アメリカ人のバレエ・ダンサーと恋愛中だから、ジャン・コクトーから離れたがっているのよって……」「プリンセス、それは違うよ、『バッカス』はね……」「いいの……」言い訳しようとするマレーをキャロルは制した。「ママンが何と言おうと、世間がなんと噂しようと、私は私の眼であなたとムッシュー・コクトーを見てきたつもり。――ムッシュー・コクトーはあなたが何をしても、誰といても、決してあなたを愛することをやめなかった。彼の愛は私の気持ちを熱くしたわ。だって、それが本当の愛でしょう? 愛は見返りを求めないものよ。――いつだったか、あなたが俳優連合の余興で、酔っ払いに扮して街灯によじのぼって、てっぺんで体を揺すってみせたとき、ムッシュー・コクトーは私の横にいたけど、真っ青になって、それこそ心臓発作寸前といったふうにあなたを見つめていたわ……本当に倒れるんじゃないかとこっちが心配したくらいよ」<明日へ続く>