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カテゴリ:アウトドア
今朝の起床は4時23分でしたのよ!昨日は5時16分。こうして起床時間を思い出す作業でボケを防止しているのです。昨日はカキコできませんでしたから!一昨日から義母が泊りに来ておりました。久々の二泊でした。土曜・日曜と私が不在でしたからね。不在っても日中の話ですけどね。今朝、カミサンを送った後に自宅まで連れてってあげました。 昨日の日曜は岩木桜会議が主催する「桜並木の手入れと宮沢賢治の旅を追う」に参加して来ました。そのお話は明日のカキコにします。 今日は一時でも早く貼りたい写真があったのです。この手入れボランティアを終了した私達を鰺ヶ沢町教育委員会の主任学芸員、中田書矢さんが鰺ヶ沢町の隠れた名所やら菜の花畑を見学に連れて行ってくれたのです。旧陸軍第八師団(本拠地:弘前)山田野演習場宿泊施設の兵舎を見せてくれた事です。 その兵舎は9号兵舎。現存する事にも驚きましたが、築100年を2012年に迎えていた。皆さんには理解出来ないと思います。私ですらえ”ぇ~の思いでしたからね。懇切丁寧に解説してくれた中田さんはもちろんですが、100年を超えた木造平屋建ての兵舎が開拓地の真ん中にデンと建っていた事自体信じられない気持ちで驚嘆したのです。 鰺ヶ沢に6年間も住んでいたのに、全くと言っていいほど知りませんでしたからね。山田野演習場の話は私も小さな頃から聞いていました。私の親父がここで実弾演習を何度も行って満州に出掛けた~と言っておりましたから。 最近、カミサンのお袋さんからもお袋さんの親父さんが近衛兵として、この演習場に居て、何度も妹の手を引きながら山田野に来ていた~と話してくれていたのです。「正門を通って、すぐ近くの松林の中で親父さんと一緒に食事をしたのよ」全く無知の私に取って、義母の話と同じ話を他人(中田学芸員)から同様の説明を受けたのである。 宮沢賢治が弟の清六(兵隊)に会いに来て一緒に松林の中の芝生で食事した逸話が清六の随筆「広野の饗宴」や「兄のトランク」からそのエピソードを知る事ができる。 弘前に陸軍第八師団本部が置かれたのは、明治31年(1898)。山田野演習場が国家規模で開設されたのが明治39年(1906~7)だそうで、兵舎が建てられたのが明治41~2年だったそうです。五能線が全線開通したのはかなり後になりますが、この当時、鰺ヶ沢~川部間にはいくつも駅がなかったらしいのですが、大正14年5月、鰺ヶ沢駅とこの鳴沢駅が開業してます。 そして宮沢賢治は、この年の9月に面会しているのです。私の義母のように兵隊さんを慰問、面会に来る民間人が多かったのでしょう! その後、終戦と同時に緊急開拓入植地として認定され、兵舎はことごとく取り壊されましたが、入植者の子供たちを勉強させる校舎として1棟だけ破壊から逃れる事ができたのだそうです。それがこの9号兵舎だったようです。その後学校は併合され、利用価値が無くなった9号兵舎は民間に払い下げられ、民具置き場として現在生き残っていたのです。 奇跡としか言いようのない話であると思いました。現在もその付近には使用していた井戸の痕跡やらトーチカ(砲弾から身を守る)もあるのだそうです。その後、鰺ヶ沢名物?毎年、新聞紙上を華やかにしてくれる菜の花畑を見たのでした。新聞より先に写真を貼りたいものですから、ボランティアの話より先になってしまいました。ホントは後先逆だからねぇ~!とっつばれ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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