カテゴリ:生きる
アウシュビッツでは、どんな人が生き抜いたと思いますか?
これが今日の問です。 肉体的に優れた強靭な体力の持ち主でしょうか。 それとも、心理的にタフな強い精神性の持ち主でしょうか。 強制収容所がどんなに残酷な場所かは、数々の記録や写真で知ることができます。しかし、私の経験の幅(想像の粋)を超えているので、本当に実感することはできません。 そんな最悪と思われる状況の中でも(きっと、あなたが最悪だと思っていることは、決して最悪ではありません。少なくとも、強制収容所に収監された人たちに比べれば)、生き抜いた人たち。 前出のフランクルは、当初、典型的な収容所の囚人は2つの段階を経て、「退行」していくと考えました。 第1の段階は、収容所に収監され、それまでの全人生に終止符を打たれるときです。アウシュビッツに入れられた者のうち、95%はこのときに既にガス室送りになったといいます。 残った5%の者を支配するのは絶望です。もう彼には家族もいません。 このとき、だれでも「鉄線に飛び込む」(自殺)ことが頭によぎるそうです。しかし、遅かれ早かれ「ガス室に入れられ」ないで済む平均的確率が極めて低いという状況では、あえてそんなことをする必要がないことを悟るのです。「ガス」を恐れるなら、「鉄線」を望むということもありえません。 第2の段階は、自分の運命に対する無関心がどんどん進んでいく状況です。 部外者には想像できないような、ありとあらゆるおぞましい恐怖や怒りから身を守るために、何事にも感情的に無関心になって、自分を守ろうとするそうです。 そして、人間は「無感情の段階」というべき状態になります。 それから、フランクルは、人間は「退行」していくと考え、それら人間を観察しました。退行とは、本能的に支配された原始的な段階に心が衰退することだとしています。 しかし、そこでフランクルが実際に目にしたものは、多くのものが退行していく中で、退行するどころか、強制収容所の体験を通して、なお内面的に前進し、成長していくたくさんのケース(人々)でした。 最初の問に戻ります。 実際、生き延びた人は、ごく僅かの運のよい人たちだけです。 しかし、その偶然に巡り合う権利を持っていた人たちは(現実には、その多くはガス室に送られましたが)、どんな人たちであったのでしょうか。 強制労働の場所へと進む隊列の中で、多くの人は、絶望と失意が心を支配し、何事にも無関心なまま、ただただ脚だけを機械のように前に動かしていました。 すると、労働に赴く道の途中で、道端にあった植物が、とてもきれいで大きな花を咲かせました。 そのとき、それに気がついて、「ああ、なんてきれいな花だろう」と心の中で感動できる人だけが、生き抜ける権利を持ったのです。 現在の私たちの生活では、当たり前のことかもしれません。 しかし、もし自分が強制収容所のような状況下に置かれたとき、そのような心をなお持ち続けていられるだろうかと、ふと考えてしまうのです。 人間の強さ、たくましさ、そして美しさって、なんなのでしょう。 そして、私たち人間に生きる力を与えるものは。 「もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。 しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、 私は何であろうか。 そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか。」 (紀元前、ユダヤ教のラビ ヒレルの言葉:フランクルの著書より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 11, 2005 10:21:24 AM
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