今更鬼滅の刃
お世話様です。題記の件、1年程前に1・2巻を読んで、まあ面白いけどそこに特別なものを見いだせず、残りは放置していました。で、最近夢中になり2日で全巻読み終えました。音楽とか映画とか本とかって、歳取ると感じ方が変わります。見方が俯瞰的になるんですね。例えば物語で人が死んだ場合、若いころは死んだことによるその喪失感が何より重大で、今はその死による物語の方向性を感じ取ってしまう。鬼滅の刃のあらすじをざっと話すと、大正時代、主人公の竈門炭治郎は鬼に家族を惨殺されてしまう。鬼とは平安時代より存在し、人を食らって生きながら得ている存在。炭治郎は鬼を退治する組織、「鬼殺隊」に入隊し鬼の首領「鬼舞辻無惨」に、鬼殺隊のメンバーと共に闘いをいどむ。そんな物語ですが、1・2巻を読んだときは物語の核や方向性が見えてませんでした。時間ができて、これだけヒットしているからには人気の理由があるだろうと、興味本位でまあ面白く読み進め、おや?と思ったのが8巻で主役級の人間があっさり死んでから。少年漫画ではまず死なない設定の人間です。次の戦いでは別の主役級の手足が鬼に切断され、しかも回復しない。昔の少年ジャンプなんて、「死んだ人間が実は生きている」のが定番の流れです。どんなに切られたり殴られたりしても、身体の一部が欠損する描写はなく、次の戦いでは全回復。万が一手足を切断されても付ければ治ったり薬飲めば伸びてきたり(笑)手足や片目が無いのは物語のはじめからの設定で、物語の途中で失うことは記憶にありませんでした。このあたりでこの漫画の方向性が見えてきます。鬼は強い。体力はほぼ無尽蔵なうえに傷を付けてもあっという間に回復する。対して人間。どんなに強い見方も技を出せば体力も減るし、折れた骨は戦闘中はくっつかない。その上主役級の手足は平気で無くなるし、時には鬼にその身が食われることを想定して一撃を企てる。「友情・努力・勝利」の少年ジャンプにそぐわない展開。まるで太平洋戦争末期の若い特攻隊員の様な面持ち。鬼は個体としてはありえないほど強いが、連帯することはなく孤独。人間は弱いが、大切な人を奪われた人間同士が自分と同じような苦しみを生み出さない為に鬼を滅すると悲願を立て連帯し、たとえ自分がやられても次の隊士に悲願を繋ぎ、鬼を追い詰める。他者に興味がなく自分だけの命や強さ・快楽を追求する鬼と、幾つもの命と世代を費やし一つの生命なって食い下がる人間達。これが熱い。自分を鑑みると、どんなに周りの良かれと思って頑張っても、頑張った分だけろくに感謝もされず、むしろ余計に仕事が増え摩耗していくことが当たり前、それが判るから仕事してるふりをして繕った方が賢いよとの周りからのアドバイス。でもそれでは鬼と一緒ではないのか?がしかし、そんなことを一人で考えても答えなんてまず見つからない。いわば、自分の頑張りを繋ぐバトンを見失っている。この物語はそんな現代人の失ったバトン・物語になりえたのかも知れません。俯瞰と言いつつ主観混じりの感想でした(^^;