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♪アトリエえんどうまめ 今季洋の日記。

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2013.04.20
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古事記を初めて読みはじめたのは、いったい何歳くらいの頃からだったのか、思い出せないけど。

かなり早い時から、「なんで?」と思っていたのが、天の御柱の周りをまわって、子どもをつくるシーン。

そこで、女であるイザナミのほうから声をかけたがために、ヒルコが生まれた。とされていること。

「なんで。なんで。なんで。」と思ってきました。

この「なんで?」にたいしては、納得できる答えを出してくれている本とかには、わたしはいまだに、出会っていなくて。

(もう、そろそろ、時代的には、そういうことにちゃんと触れている本が、出ていてもおかしくないので、出ていたら、ぜひ出会って、読んでみたいと思っているのですが。)

それで、どこにも答えが見つからないので、自分でその問いの答えを探してきて、わかったことは、

「古事記の地層の下には、大地母神的な女性が主導権を握っていたような時代が、ながい時代続いていたのだ。」ということ。

それは、日本だけではなくて、世界的に、そうであったらしい、こと。

その地層の上に、古事記的世界が成立した時に、足元の、かつて力を持っていた世界は、「やっつけられる」とか「封印される」ようなことが、起きていた、ということ。

(だけど、古事記のここのところのことは、たくさんのことを、示唆していますね。
ものすごくたくさんのことが、示唆されても居ますよね。)



明日、神話研究会で。

わたしは、古事記のお絵描き講座をやるのは、今回が初めてのことなので、毎回、講座の準備には、たくさんの時間を使っているのですが。

ただ、勉強して、講座に備えただけでは、どうも何かが違っていて。

どこが違っているのか?と、探してみてわかったことは、「それが、自分と、何の関係があるのか?」にまで、落とし込めていないと、ただ、頭だけで、空回りしてしまうことがわかりまして。

「明日の講座の内容は、自分と、どのような関係があるのか?」

これは、私が生きているということと、古事記というものの、歯車に、接点ができるということなのだと思います。

そのこと自体には、わたしは今でも、歯車は噛み合っている手ごたえを持ってはいるのですが。

ただ、いま私の関心は、西欧史的な歴史のほうにフォーカスしていまして、つまり、大きな歯車のほうに意識が向いていまして、そこから古事記を見ているので。

明日の講座内容という小さな歯車に、どうも落としどころが見つけられずにいるのだと、思います。

(もちろん、大きいことも小さいことも、両方とも大切です。)

それに困って、この文章を書くことで、接点を探しています。

接点は、無いのではなくて、自分が気がついてないだけの、はずですから。



古事記とかに触れると、その層の厚さや、エネルギーの強さのゆるぎなさに、畏れ多さを感じたりもするし。

そういうものに、「対峙しているという構図の時のわたし」は、ただの大海の一滴にすぎないと、自分の小ささを思い知ったりもしているのですが。

ただ、古事記とかは、(これは私から見た、個人的な見かたなのだけど。)どこか、痒がっているようにも、見えるのです。

その痒がっているところを、かいてあげると、そこからぼろぼろと古い不必要になったものが、剥がれ落ち、新しいものが生まれてくるような。

そんな感じがしています。

それがされ続けて行かないと、古事記は、古く固まって、干からびて、死んでしまう。古事記は、自分がそうなることを、望んではいない。

(これは、あくまで、わたしの勝手な解釈ですけれども。)



もちろん、実人生上で、たくさんのシンクロは起きていて、明日講座で触れようと思っている「鏡」...。

あっ!
これで良いのか!

わっかりましたぁ!

この文章を読んでくださっている方には、意味不明で、申し訳ないです。

ちなみに、この鏡のおはなしは、『日本人の神話的思考』北沢方邦、著 講談社現代新書の、P.133のあたりに、ラカンの引用とともに、出てきています。

イナバのシロウサギと、アメリカインデアンのトーテム動物のおはなしも出てきて、とても興味深い文章がつづられています。

人間という「種」に対する、「鏡存在」としての、「動物のおはなし」が、書かれています。



そうですね。

古事記との向かい合い方についてなのですが、それは、結局、古事記が痒がっているところをかくことができる方法としては、

その、「それが、自分と、何の関係があるのか?」を、みんなが探してゆくところに、あるのかも知れませんね。

古事記は、遠いいにしえの、自分とは関係のない、神話のお話ではなくて、今の私たちと共に生きている、生きたお話であるはずなのですから。



そしてまた、この「鏡」こそが、ユング曰くの「自己」ということも、できるのかも知れないと、思いました。



土曜日、夕方7時からのEテレで、『地球ドラマティック』という番組をやっていまして。

今日のテーマは「動物は、何を考えているのか?」というような内容でした。

やったね!

明日の講座に、シンクロしていました!

そこでは、ミツバチなどにあてはめられる「群知能」ということが、取り上げられていまして、そして、番組最後の言葉は、(いそいでメモしたので、正確では無いかも知れないのですが)「人間を理解するには、動物を介して、行動を理解する必要があるのです。」というようなものでした。

北沢方邦さんが、人間という「種」に対する、「鏡存在」としての、「動物のおはなし」を通して言おうとしていることも、まさにこのことですね。





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Last updated  2018.08.06 17:05:12
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