カテゴリ:スピリチュアルな考察。
長年そこに住んでいたのに、ある朝、その日の瞬間にだけ、不思議な模様が部屋の壁にできたことがありました。
そのときできた光の模様は、ちゃんと写真に収めていました。それはこちらです。 この朝、 このちょっと不思議な光の模様を見て、 わたしはとても大切な気づきを 得たのですが。。。 そのことについて書いたのが、 《こちら》の過去ブログです。 この過去ブログでは、このとき、どのような気づきに至ったのか、それは書いてないのですが、それは何故かというと、きっと書けなかったのだと思います。 どうして書けなかったかというと、そういう気づきというものは、言葉よりもはるかに高速なものだから、言葉に落とし込むのは結構難しいものだからなのです。 でも先ほど、『ブッダの夢』という本を読んでいて、そこで中沢新一さんが語っている言葉と出合い、あぁ、あの時感じたものは、まさにこれだったのではないかと思いました。 この本から、そこの部分を引用したいと思います。 「それからジャック・ラカンの本を読んだら、わあ、この人も仏教徒だと思った。なぜかというと、中観(ちゅうがん)のことを言っているからです。ラカンを僕が面白いなと思うのは、人間はたしかに言葉の世界の虜にになっちゃって、ものすごく不幸な状態で生きなきゃならないけれど、幸福な瞬間もありうるということを言おうとしているからです。 言葉を使う人間でも幸福になれる。 それは、自分が見ている他人の像が、他人が見ている自分の像と合体するときで、その二つがイコールで結ばれるときで、そのときは、人間関係の中に、無理数である黄金数 (√5-1)/2) という数字が出てくる。 要するにそういう人間関係は有理数としてはつくれない。」 ここに書かれている後半の有理数・無理数の解釈は難しそうですが、実際にこの本のこの文章の前後を読むと、ずっとわかりやすいです。 そうでない前半部分の、人対人の混じりけの無い「あるがまま」で結び付いた関係、それは何ものにも代えがたい歓びなのだ。 そこの部分の気づきが、この光の模様を見た時に、流れ込んできたのでした。 というのも、対人関係においては、自分自身が自分を認識していることと、相手がわたしを認識していることとの間には、ずいぶんとずれが生じていることが多いからなのです。 対人関係は、よく「鏡」に象徴されますが、たいてい対人関係は、お互いに「いびつな鏡」どおしであることがほとんどなのです。 そんななかに、「真正の鏡」同士となりあえる人間関係が立ち昇った時は、かけがえのない歓びに満たされる、という体験を認識できたのが、この不思議な光の模様を見た朝だったのでした。 そして、ホ・オポノポノでは、このあたりのことが、 『アロハ!』の中で、 「誰かになろうとしなくていい。あなた自身でいてほしい」という、 ヒューレン博士の言葉として、紹介されていると言えるように思います。 わたしがわたしであることは、 その場に一緒にいた あなたがあなたでいることになります。 というようなこととして、 ここには書かれています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.02.01 21:25:29
[スピリチュアルな考察。] カテゴリの最新記事
|