なぜモンゴルは分断されたままなのか? (内モンゴル2人のリーダー、徳王)(1)
外モンゴルが独立した直後には内モンゴルと合流できるチャンスがしたが、中露の干渉によりそれは実現しませんでした。そしてその後のキャフタ協定を経て、南北モンゴルの分離は固定化されていくことになったのです。南北モンゴルにとっての次の統合チャンスは、第二次世界大戦前後の混乱期でした。この時期の動きを象徴的に表す人物をここでは取り上げます。一人は、ハルハと一緒に独立を勝ち取りたいと願ったデムチュクドンロブ(Дэмчигдонров)であり、もう一人は中国共産党に入り、中国内側からモンゴルの強い自治を獲得しようとしたウランフー(Уланху)です。結果としては、2人とも成し遂げたいと思ったことはできませんでしたが、当時の内モンゴルを知る上では重要な2人であり、モンゴル人として名前くらいは知っておいてほしいと思うのです。一人目は、統一モンゴルの独立を願ったデムチュクドンロブです。デムチュクドンロブは、1902年チンギスハーンの30代目の子孫として内モンゴルのシリンゴル・アイマグで生まれました。中国や日本では徳王(Dé Wáng, とくおう)と呼ばれ、モンゴル語ではДэ Ноён De Noyonとも呼ばれました。この中では私は徳王と呼ぶこととします。 デムチュクドンロブの写真。これは内モンゴルで発行された切手です。まず1930年代の内モンゴルの時代背景を整理しましょう。中国は中華民国と名乗り、国民党の蒋介石がリーダーでした。内モンゴルの東部は日本が作った満州国に組み入れられており、内モンゴル西部とは分離されていたのです。当時の日本軍は、内モンゴル西部も国民党政府から切り離しを図っていました。当時内モンゴル西部のリーダーであった徳王は、国民党政府に対して高度な自治を求めていました。ですが、徳王の側近がスパイ容疑で中国人に殺された後、徳王が満洲国のモンゴル人リーダーと会った時に「日本のモンゴル人に対する扱いは良好である」と聞き、徳王は「日本を利用して、モンゴルの独立を考える」ようになったのです。日本の内モンゴル西部への狙いとも合致し、徳王と日本の蜜月が続くこととなります。1936年、日本軍の支持のもと「モンゴル軍政府」設立、更に1937年日本軍の傀儡政府であるモンゴル聯盟自治政府(Монголын Өөртөө Засах Нэгдсэн Засгийн Ордон)を成立させ、徳王は二代目の総裁となりました。更に1938年、1941年と2度の日本訪問をしました。日本側からは大歓迎され、準国賓待遇を受け、日本の天皇とも接見しました。日本としても内モンゴル西部を取り込みたかったのです。だが1945年、徳王の目論見は実現しないまま日本は敗戦国となりました。敗戦国日本にはもう頼れないし、日本への亡命も不可能となりました。徳王には3つの選択肢がありました。第1は、ソ連、外モンゴルと一緒になること、第2は国民党と手を結ぶこと、第3は共産党と手を結ぶことでした。当時は中国内では国民党と共産党は争っていたので、日本側に協力していたとはいえ、両党ともモンゴルを自分の陣営に入れたいという思惑がありました。だが、徳王は「中国の下に入るのは嫌だ」と思い、当然のことであるが第1案を希望しました。しかしながら、ソ連、外モンゴルが日本軍と協力していた徳王らをどう見ているか?が問題であったのです。(続く)