なぜモンゴル人は中国を契丹というのか?
モンゴル人と付き合ったり、モンゴルに住んだりすれば、いかにモンゴル人が歴史的に中国人を嫌っているのかは良くわかる。日本人も中国人を嫌う傾向にあるが、それは歴史的な問題というよりも、現在の中国共産党の人権弾圧や他国への軍事的威圧など、近年の中国に対してである。が、モンゴル人に関しては数千年に渡る遊牧民族と農耕民族の対立がその背景にあるので、今では「理屈を超えたDNAレベルでの嫌中」と言って良いほどである。現在の中国は多民族国家であり、満州人もチベット人ももちろんモンゴル人もおり、モンゴル人にとっては彼らへの嫌悪はない。そもそも清朝の時代は同じ国であったこともあるわけで、私は中国という国家への嫌悪ではなく、漢人という民族への嫌悪であると捉えている。私はモンゴルという歴史ある国が、他国をどう呼ぶのかに興味を持っていた。どの国でもそうであるが、歴史的につながりのある国(友好か非友好かを問わず)は歴史的な呼び名がある。逆に言えば、遠い外国の名前のほとんどは近代になって入ってきた名前なので、世界的に使われる名前を使うのが常識である。モンゴルにとって遠いフランスやアメリカは、「外国で使われている呼び方」がそのまま入ってきて使われている。だが、歴史的につながりがある国はどうなのか?例えば、朝鮮半島の国はどうか?元の時代から関係があり、多くの諸外国ではKorea(高麗が起源と言われる)と呼ばれる。近隣であった、中国では朝鮮、日本も朝鮮や韓国と呼ぶ。モンゴルではこれらの発音とは全く似ていないソロンゴスと呼ぶ。これは満州の女真語(Solho, Solgo)が起源ではないかと言われている。やはり歴史ある関係を持つ国とは、近代的な呼び方とは無関係にあると納得した。では、最も長い敵対的関係を持つ中国のことをモンゴルではなんと呼ぶのか?世界的に見れば中国の呼び方は2つある。1つは、清朝の呼び方に基づくもので、China, Chino, Chinなどであり、日本も第二次大戦以前はシナと呼んでいた。もう1つの呼び方は、中国という辛亥革命以降の国家名である。現在の日本はこの中国という呼び方で呼んでいる。では隣国としての長い歴史を持つモンゴルはどうかと言うと、ヒャタッドであり、全く違う発音である。私は当然、憎き漢民族のことをヒャタッドと呼ぶのだと思っていた。が、事実は全く異なるのである。結論から先に言えば、モンゴル人は中国のことを「同じ遊牧・狩猟民族の集団の名前」で漢人のことを呼んできたのである。憎き民族名が、実は自分たちの仲間だったのである。その語源は契丹に遡る。契丹(キタイ)というのは、4世紀ごろに遊牧騎馬民族である鮮卑人が起こしたとも言われ、モンゴル系遊牧民の祖先とも考えられる人々の国である。そして10世紀ころからは、満州を中心に現在の内モンゴルなど中国北部を占める大国となり、漢名を遼とした国である。その後さらに現在の新疆ウィグル地域に西遼(カラキタイ)を建国した、大国であった。当時の漢人の国は、キタイの南にあった宋が中心であった。(但し、宋の支配層はテュルク系沙陀族であった)モンゴル高原の遊牧民にとっては、自分たちより南にある国キタイを中国、つまり漢人の国であると勘違いしたのであろう。この勘違いが、世界に大きな影響を及ぼすことになる。キタイのKの発音はKhにも通じ、更にはHにも変化する。K,Kh,Hは歴史的に見れば同じ発音と考えてもよいであろう。モンゴルがモンゴルの南にいた遊牧民を漢人中国と間違えてキタイの人々、すなわちヒャタッドと誤解した。そのモンゴルに支配されたロシア人もあの漢人の国をキタイと呼んだ。当然、ロシアへ行く途中の中央アジアの国々でも中国のことはキタイと呼ぶ。KとKhの違いだけである。ペルシャ語の歴史書には、モンゴル帝国が金を征服したことについて「ヒータイを征服した」と書かれてあるそうである。金は女真であるので、遼の後継国ともいえるから、言葉の使い方としては正しい。翻訳すれば「モンゴル帝国が契丹を征服した」となる。モンゴル帝国の言葉がヨーロッパに伝わり「カタ」「ハタ」「カタイ」「キタイ」などの言葉で中国を指す言葉としてヨーロッパに広まったのである。これがイギリスにまで行くと「Cathay」となった。イギリス資本で香港に作った航空会社Cathay Pacific Airlinesは、直訳すれば中国太平洋航空という意味なのである。このChinaとキタイの違いが良くわからなくなったヨーロッパ人は、しばらく混乱したようである。ChinaとCataio(カタイ)が同じ地図に横に並んで書かれた地図もあったのである。1125年、チンギスハーンの登場よりも前に滅びた契丹国は、「中国」という名前で今も世界で生き続けているのである。