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カテゴリ:歴史秘話
asahi.Comより引用 『風船爆弾』心臓部を寄贈へ 横浜の女性、国立科博に 太平洋戦争末期に旧日本軍が独自開発した『風船爆弾』の心臓部にあたる 『高度維持装置』が、27日に国立科学博物館に寄贈される。 国内で確認されている唯一の実物で、科博は『残っていること自体が奇跡的。 日本の技術史の空白を埋める貴重な資料だ』と歓迎している。 『風船爆弾』。 戦争末期に実際に『ふ(富)号作戦』で使用された日本軍の秘密兵器ですね。 『風船』と言ってますが、実物は直径約10mもある大きなもの。 これに対人爆弾や焼夷弾を吊り下げ、米国本土を直接攻撃したわけです。 今回発見されたのは、飛翔中に自動的にバラスト(砂)を投下して高度を調節する 『高度維持装置』の部分。 風船が日本から米国本土にまで到達するのか? という気がしますが、 日本上空から米国本土にわたって強い偏西風(ジェット気流)が発生しており、 十分に可能だったようです。 これを欧米よりも早く日本の研究者が発見したことにより実戦投入されました。 一個つくるのに約1万円で(米1kgが4円の時代)、 その製造には主に女学生が動員されました。 約9300個が製造され、そのうち約1000個ほどが 実際に北アメリカ大陸に到達したそうです。 (風まかせの攻撃なので、米国以外のカナダなどにも到達していた) 驚くのがその構造。実にアナログ的発想で製造されていました。 風船本体はコシの強い和紙をコンニャク糊で貼り合わせたもので、 『純和風』の兵器だともいえます。 米国側では和紙で出来ているのは分かっても、その接着に何を使っているのかは 戦後まで分からなかったらしい。 既にこの頃には日本全土を焦土と化すべくB-29を大量生産していた 米国とはとても対称的です。 で、気になるのがその『戦果』。 一部が小規模な山火事を発生させたり、原爆製造プラントを一時停電させて 操業遅延させたりしたようですが、実際には戦局を変えるほどの被害を与える には至りませんでした。 もう一つの心理的に追い詰める、という観点でも、 逸早く情報統制した米国には影響がなかったようです。 しかし、米国本土攻撃での唯一の死者を出さしめたのがこの『風船爆弾』でした。 【オレゴンの悲劇】 オレゴン州にある人口1200人ばかりの森に囲まれた静かな村、ブライ。 終戦3ヵ月前の1945年5月5日。牧師夫妻と日曜学校の生徒5名は山へ ピクニックに出かけます。 そこで子どもたちは松の木にかかる異様な物体を発見。 子どもはつい好奇心からそれに手を伸ばしてしまう・・・ 次の瞬間。大きな爆発音と共に、夫人と5人の子どもが吹き飛ばされ、 計6人が犠牲になってしまいました。 それは日本軍の風船爆弾だったのです・・・ その後、その場所には慰霊碑が建てられ、碑文が刻まれました。 『この地は第二次世界大戦中、アメリカ大陸において、 敵の攻撃によって死者を出した唯一の場所である』 戦時中の米国ではこの事実は隠されていたようです。 下手にこの情報が漏れると全米がパニックになる可能性があったからでした。 いつ、どこに落ちるか分からない爆弾の恐怖。 風船で出来ているためレーダーにも映らない。 ましてや、これに細菌兵器などが搭載されていたら大変なことに・・・ 戦争というものが、いかにあらゆる手段を用いて行われるものか。 また、追い詰められた国家がどういう行動をとるのか。 ちょっと考えさせられた話でした。 また、こんな話もあります。 戦後、風船爆弾の製造に携わった元女学生たちが、 自分たちの造った風船爆弾によって人が亡くなってしまったことに胸を痛め、 慰霊のために現地を訪れ、ブライの地に桜の木を14本植えてきたそうです。 恩讐の彼方に。 その後、元女学生たちとブライの人々が交流を深め、 互いに犠牲者の冥福を祈り、平和を願ったそうです。 『お互いに許しあうことが、平和に通じる。』 風船爆弾によって亡くなった遺族の方の言葉です。 ちなみに風船爆弾については本書が詳しいです。 『風船爆弾秘話』 光人社 櫻井誠子著 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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