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カテゴリ:心象スケッチ
この夏、大分県国東半島に天台宗寺院をめぐり歩いた。
宇佐神宮のお膝元とあって、この地域は古くから神仏習合の発祥の地とされ、修験道者が集まり山岳修行を行っていたことで知られる。 宇佐神宮といえば八幡宮の総本山だが、「ヤハタ」というのがまた、いかにもヘブル語っぽい。 昭和46年のNHK「新日本紀行」で国東半島の「鬼文化」を紹介していたのを動画サイトで観て以来、気になっていたこともあって、うちの奥さんとマヒワがジャニーズショップめぐりで東京へ行って留守なのをいいことに、僕も週末に仕事を終えた後、まっすぐ国東半島へ足を向けたのである。 山岳修行の場とあって、国東半島はどこへ行ってもいたるところに石仏がある。小さな村社なども点在していて、ちょっと車で走れば小さな鳥居があり、寺があり、石仏がある。 そんな村社や古寺をいくつもめぐり、お昼近くになって、六郷満山の根本道場にあたる両子寺(ふたごじ)を訪ねた時のこと。 ちょっと面白い経験をした。 両子寺の山門をくぐって護摩堂やら客殿やらめぐり、鬼橋を渡って長い石の階段をえんえんとのぼり、奥の院本殿にたどり着いた。 参拝順路では、まず本殿で手を合わせ、それから本殿裏にある洞窟で不老長寿の霊水をいただく、ということになっているのだが、 そういう順番に頓着のないおっさん。 霊水とはどんなものか、本殿より先に洞窟の中に入ってみた。 しかし、暗い洞窟の中のどこを探しても、霊水らしきものは見当たらない。 (まあ、夏だからな。枯れてるのかも) あまり気にせず、洞窟を出て、本殿に上がった。 先客がいた。僕より若い、すらりとしたお姉さん。 本殿の正面に立つと、そのすぐ横にいた僕にお辞儀をし、それから正面に向かって鐘を鳴らし、深々と頭を下げた。 白いハンドバッグの中からポケットサイズの経本を取り出し、 そのお姉さん、とても早口に「般若心経」の中国語訳を「かんじーざいぼさつぎょーじんはんにゃーはーらー」と、やり始めた。 唱え終わると経本をパチンと閉じ、また深々と頭を下げる。そして僕にもお辞儀をして、颯爽と本殿を下りて行った。 カッコいい。 シビレてしまった。 で、まあ、僕も本殿の中をのぞいたり写真を撮ったりしてから、本殿を下り、石の階段をえんえんと下りて帰ろうとしたのであるが、 そのとき、鬼橋のそばで、小さなヘビを見た。 ヘビは僕に何かいいたげに、黒くまんまるい目で僕を見て、すぐに水たまりの表面をくねくね進んで藪の中へと消えていった。 このとき僕は、妙に「呼ばれているような気がした」 別に霊能者でも何でもないので、「気のせい」といえばそれまでなのだが、後ろ髪を引かれる思いというのだろうか、それに近い感覚で、奥の院の方から呼ばれている気がしたのである。 どうしようか・・・。 僕はくるりと回れ右をして、奥の院のほうへ向き直った。 「かんのんさまか、あみださまか、おやくしさまかは存じませんが、僕はキリスト教徒です。ここへ来たのも信心のためではなく、見聞を広めるためで・・・」 しかし、ますます呼ばれている感じは強くなる。その「感じ」をあえて言葉に直すと、こんな風になると思う。 「おまえの信心など訊いてない。ここまで来たのなら、きちんと礼を尽くせ」 僕は仕方なく、また鬼橋を渡り、長く急な石の階段をひいひいと悲鳴をあげながらのぼって行き、また奥の院本殿の前に立った。 「礼を尽くせ」 というのだから、今度は順路どおり、本殿に先に上がる。 ふと、先ほどのカッコいいお姉さんを思い出す。 もっとも僕はお経なんて知らない。知っているとすれば「般若心経」の最後の短いマントラの箇所だけ。 そこで鐘を鳴らし、マントラの箇所だけをサンスクリット語で唱えた。 gate gate pārāgate pārasaṃgate bodhi svāhā なんだってキリスト教徒の僕がそんなものを知っているかという話はまた今度。ともかく、 唱え終えて本殿を下り、順路通り洞窟に入ってみた。 すると、今度は霊水がたっぷりあった・・・のである。 ありがたい霊水。 てのひらにすくって、いただいた。 * ところで、「般若心経」の内容を思い出すとき、同時に僕は「ルカによる福音書」23章43節の、イエス・キリストの不思議な言葉を思い出す。 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 あまり詳しくないが、群衆が霊鷲山の頂上にいて、釈尊の説法を待っていた。ところが釈尊は瞑想してばかり。このとき、釈尊とともに瞑想していた聖アヴァローキテーシュヴァラが、とつぜん悟りに至る。 その様子に釈尊の筆頭弟子シャーリプッタがびっくりしていると、聖アヴァローキテーシュヴァラが彼に悟りの内容を語り始める。 テレビドラマに夢中になっていて、自分もドラマの中に入り込み、他の出演者と一緒に泣いたり気を揉んだり苦しんだりしている。 すっかりドラマの中を生きているのだが、 ドラマが最終回になって、それも終わり、テレビを消すと、思い出す。 自分が本当にいたのは、テレビドラマの中ではなく、現実の世界だったと。 人生というドラマが終わって、テレビを消したとき、自分が本当にいるのは、苦しみも病も老いも死もない、永遠というパラダイスであったと知る。 死んでからパラダイスへ行くのではない。はじめからそこにいるのである。ただ、五蘊のドラマの中に没頭していただけなのだ。 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 ゴルゴダの丘で、ともに十字架につけられた囚人が、苦しみの中からイエスにすがる。同じく十字架につけられ苦しみに悶えながらも、イエスは彼に答えた。 「アーメン。ここだけの話だけど、実はあんた、本当はオレと一緒にパラダイスにいるんだよ」 禅宗的な福音解釈に過ぎるだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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