わたしが変える!
「change!」 変えます! これでオバマが大統領になった。日本の首相たちも「私が、変える」といっては選ばれてきたような気がする。民主党も「変える」といっている。麻生をみんなで担ぎ出したはずの与党側も「変える」といっている。選挙にあたって「私は変えません」といっている人はあまり聞いたことがない。「変える、変わる、変えよう、変えなければ、変化、変革、改革」が選挙のキイワードとなり、万能薬のような言葉にのし上がってきた。そして選挙民たちも、「今までと変わっていいんじやないの」とか「とにかく変えてもらいたい」、「変えてくれると思って投票しました」と答えている。「変」ることこそが現代人希望の星、みんな「変」に恋しているのだ。恋しい恋しい「変」さまなのだ。「変」なくば停滞する、沈む、腐る、動かない、退屈だ、飽き飽きする、つまらないということなのだろう。とにかく「変える」といえばみなが深くうなずき、あるいは熱狂的に支持してくれる、魔法の言葉となっている。どこかの知事がいった「どぎゃんせんとイケン」も、この変りたい症候群にうまくとりいった結果だろう。僕はこの「変える」「変わる」という言葉のひとり歩きに、なにかひっかかるものを感じてならない。たしかに、現在の社会や政治の閉塞感、手詰まり感、年金問題を始めとする国民への裏切り体質、みんな変わらなければいけないと思っている。しかし、こういう政治、変えなくてはいけない政治をつくってきたのは、ほかならぬ「変えよう」「変えます」と連発してきた人たちなのだ。小泉・竹中路線の「自民党をぶっ潰す」も、いまや自然自壊の方向に向かっているようだが、それは勝手に壊れればいい。しかし問題なのは社会のなかで暗黙のうちに守られてきた安定した雇用や、企業や商店など社会の棲み分けルールも壊して、弱肉強食の社会だけを残していることだ。派遣法により、正社員が減り派遣労働者が多数になり、その人たちがグローバル世界での大企業が生き残る調整弁とされている。人がものとなる世の中になったということだ。これらも「変える」ことを推進した人と、それを受け入れてきた国民が呼び込んだものだ。以前に不祥事があったときに「NHKは思い切って変わります」というキャンペーンを張っていた。「どのように変わる」かではなく「変わること自体」をアピールした。このキャンペーンは「変わる」といえば視聴者に支持されるという下心が見え見えだった。それで、どのように変わり、どのように良くなったのかは正直よくわからない。「変わる」「変えなければ」という風潮、それを内容がないままによしとする人々が多いのに驚く。内戦、犯罪、飢え、貧困に満ちた国々にくらべれば、これまでは曲がりなりにも平穏でゆたかな社会でもあった。それにたいくつして、うすぼんやりとした被害者意識の中で寝呆けた声を上げる。「変えよう!」と。平和ボケ、欲ボケのなかであくびと共につぶやく、「変わろう」。かくして、小泉→安部→福田→麻生とグルグル「変わって」すばらしい社会が創造されたのだろうか。「変わる」というのはいかにも創造的に聞こえるが、その先を示さないのは、それまでのものを「打ち壊す」といっているだけで、社会の破壊活動を煽動している打ち壊し野郎にすぎないのではないのか。それに応じて支持した人は、今までの生活を破壊すべく差し出せるだけの覚悟ができていたのだろうか。「今まで」を捨て、それに替わる新しいものを創造しなければ、破壊で終わる。そしてその新しいものが、真に創造的なものでなかったら「変える」意味などない。実際には「変えよう」などとは、相当のビジョンと覚悟がなければ軽々しくいえないはずだ。これからも、選挙を意識して自民党の顔を変えようという動きが加速されるだろう。しかし、表紙を変えて本の中味が変わるのだろうか。「変える」の中味には、用心深くなるべきではないだろうか。そして、本当に「変える」べきときに、たらい回しのような小手先ではなく、腐った政治、社会の中味をきちんと「変える」。こうであって欲しい。ぬるい世の中の象徴、世襲政治を変えよう!あ~あ、言っちゃった(苦笑)蝶クリック