美しくなる条件
突然見知らぬ人から句集が送られてきて、鑑賞文を書いて欲しいと依頼を受けた。知った人から本を送られることは少なくないが、書いてといわれると困惑する。親しめる内容なら楽しんでも書けるが、送られてくるものの半分くらいは正直にいうと困惑ものなのだ。川柳や俳句などの文芸にかかわらず美術や音楽など芸術も、純粋に作品として中味を鑑賞評価すればよいのだろうが、作者をとりまく環境や背景を知ることでより鑑賞が深まることもある。一概に決めつけることはできないが、文芸や芸術活動は作者の置かれている環境が作品に影響を与える。鑑賞をするようにといってきた人とは一面識もないから、そうした背景は想像するしかない。わかるのは、地域と性別だけだ。しかし、送られてきた数百句を通読するとおおよその人物像は浮いてくる。まだJRが国鉄で、貨物列車としての役割を果たしていた頃、事務所近くのローカル駅は飯田線一の貨物の集積場所だった。トラックに貨物輸送を奪われて使われなくなった線路がそのまま残り、ときどきその線路上を散歩する。もう3年ほど前になるが、廃線同様になった線路の敷石のあいだに咲く菫(すみれ)を見つけた。普段は草花を採取する習慣はないのだが、その姿があまりに清楚で鮮やかに美しく可憐だったので一目惚れして、周囲の石をとりのぞいて持ち帰り、庭の片隅に植えた。その菫は根付き、毎年春先に花を咲かせてくれるのだが、どうも線路上に咲いていた頃と美しさが違うような気がする。石ころの隙間に根付いていた頃とちがって、肥土に移したので、草丈も花も大きくなったが、線路上にあったときの色の鮮やかさがない。可憐だった姿もどこかだらしなく締まりがない。僕にふつふつとある疑念がわいてきた。もしかしたらあの可憐さは、人の眼に触れさせて移植を促すための花としての所作だったのではないだろうか。このように、置かれた環境に適応して、姿や性質が変わってゆくのだろう。生きのびる厳しさを失った花なりの、現在の姿なのかも知れない。話が逸れてしまったが、鑑賞を引き受けた人の作品、始めは欠伸を堪えながら読んでいたが、読み進むうちにその人の人物像が浮かび上がってきてのめり込んでしまった。特別に整った優れた作品というわけではないが、個性がうかがえる。いきなり送りつけて、書けとはちょっと我が儘だとおもうが、それも許すか…。蝶クリックを!