大阪市住民投票について思うこと
先日行われた大阪市住民投票について、思うところはいろいろあるのだが、その是非そのものについては、勉強不足ということもあるので、あえてコメントは差し控えたい。ただひとつ思うことは、ある意味橋下氏の信任投票的なモノになってなかっただろうか、ということだ。橋下氏の政治手法は典型的なトップダウン。先ず結論ありきで提示して、反対する勢力に対しては徹底的に論破する。少なからず軋轢も起きるが、物事が決まるスピードは圧倒的に速い。もちろんこれには当然好き嫌いもあろう。ここまでやらないと、いつまで経っても変わっていかないじゃないか、という人もいれば、もうちょっといろんな意見を聞く耳を持たないと、という人もいるだろう。今まで橋下氏が実行してきた諸々の政策、これらについてもあくまで論理的に考えれば、是々非々で結論付けられるところを、「橋下氏がやった」というだけで、頭ごなしに反発してしまう、ということはないだろうか?と、ここまで書いて、大阪市民でもない私が何をエラそうなこと言っているのだ、と思われる方もいるかもしれない。何のことはない、私が単にトップダウン型の政治家が嫌いなだけなのだ。だから大阪市民の中にも、私と同じ感覚の方が少なからずいるに違いない、と思ったわけだ。もちろんこれだけ多数の人が暮らしていれば、それだけ多数の意見があるわけで、それを最大公約数的にまとめるというのは、どだい無理なことなのかもしれない。それだけに“カリスマ”待望論のようなことも出て来るのかもしれないが、それでもやはり、「議論を尽くす」ことをないがしろにしてはいけないと思う。橋下氏も決して議論をないがしろにするつもりはないとは思う。ただ彼は元・弁護士で、当然ながら弁も立つ。そんな人相手に議論を吹っかけても、論破できる見込みは極めて少ない。そのあたりを十分認識していればいいと思うのだが、現実はどうなのだろう?もちろん私の住んでる地域は大阪ではないので、橋下氏に関する情報は全国メディアを経由するものだけだから、一定のバイアスが掛かっていることを織り込まなければいけない。ただそれを割り引いても、「調整型」のリーダーを望む私には、到底相容れない人だ。もしも私と同じ感覚の人が大阪市内に居て、大阪都構想の中身をロクに吟味せず、単に橋下氏が嫌いだからといって反対票を投じていたとすると、それは大阪にとっても不幸なことだと思う。橋下氏に対する好き嫌いだけで、大阪の行く末が決まってしまうなんて、ありえない話だ。何が言いたいのか分からない、支離滅裂な話になってしまったが、いまひとつ言えることは、投票結果が非常に拮抗したことが救いだった、ということだ。それだけ今の大阪の現状に対する不満が大きいということの表れだろうから。おそらく次期大阪市長に就任する人とて、この結果は無視できないだろうから、必然的に大阪の二重行政にメスを入れる必要に迫られるだろう。それだけでも今回の住民投票を行った意義はあったと言えるかもしれない。