「風林火山」逆襲!武田軍
今回の「風林火山」は村上との戦での敗戦の落胆を抑えきれない武田春信(市川亀治郎)は軍師・山本勘助(内野聖陽)とこのような会話をかわします。「なぜ、わしは負けなければならなかったのじゃ。板垣(千葉真一)や甘利(竜雷太)がわしの下知に従わなんだからじゃ」とあくまでも自分の軍略が正しかったと主張する春信に「この戦さ長引けば家中の不満はお館様にむけられるでございましょう。板垣様甘利様はそれをお按じになられたのでございます。」と勘助は言い、春信は「それではまるでこのわしが板垣や甘利を殺したようなものではないか」と落胆し「板垣様は最期までお館様を御守りしたのです。ご本懐を遂げられたのです。」と勘助に言われるのでした。 そしてやっと母の大井夫人(風吹ジュン)に説得されて合戦から20日以上が経過してから退陣したのでした。大井夫人は「国のために利を求めることは大事。なれど人を慈しむ心なくば、その利によって国が滅ぶこともあろう。甘利と板垣は、そなたの天運を信じるが故に死をもってそなたを諫めたのじゃ。そなたは今一度己の道を見つめ直さねばならぬ。人々は強いそなたを信じるのではない。そなたの信じるものを皆も信じたいのです。」と春信を説得したのでした。 勘助はと言うと「わしは諏訪の形勢を見誤った。いや見てはおらなんだ。慢心があったは、このわしじゃ」と反省しきり、春信も「わしはこたびの負け戦で忘れかけていた心を取り戻した」とすっかり反省していたのです。 そんなときに諏訪の西方衆に反乱の気配があり、その支援のために小笠原長時(今井朋彦)が軍勢を率いて諏訪に攻め寄せてきたのです。しかし形勢は武田に有利でした。勘助は軍議の席で「敵の油断とこの七月の暑さが我らが味方となりましょう」と明言したのです。そして諏訪衆からは裏切り者はでませんでした。それは板垣が用意した諏訪明神の旗印のお陰でした。また板垣は小笠原家中の寝返り工作もしていたのです。 7月19日卯の刻、戦は武田の奇襲によってあっけなく幕を下ろしました。もちろん武田の勝利です。国境にて七日間留まっていた武田軍を臆していると判断した小笠原軍は油断しきって鎧兜を脱いで涼を求めていたのです。小笠原長時は這々の体で逃げ帰り、高遠頼継(上杉祥三)は甲斐の国にて自刃したのでした。 合戦が勝利に終わり板垣を追って自害しようとする伝兵衛に対して勘助は「追い腹を斬るか、伝兵衛?それもよかろう。最も楽な死に方じゃ。板垣様は楽に死ねたかのう?拾った命は存分に生かさねばまだまだ板垣様のお側には行けぬぞ、伝兵衛!」と叱責するのでした。 ここで歴史に残る名ぜりふがでてきます。「わしは生涯、わが甲斐に城は築かぬ。そちたち人こそがわしの城じゃ。人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」と諏訪明神の法号の前で板垣に誓う春信の腕に、どこから来たのかオニヤンマがとまり、それが板垣の幻となって、こういったのです「若、よき歌にございますのう。人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり。よき歌にござる」 あまりに有名な武田信玄の言葉が出てきて、今週は大盛り上がりでした。人を信頼することこそが何よりも大事。それは現代の僕たちの人生訓としてもいまだに生きている教訓ではないでしょうか?ついつい「人」ということを忘れて企業戦略に走ってしまうことって仕事をしているとありますね。僕もネットの向こうにいるのは人なのだと言うことを忘れないようにしたいものです。また自刃しようとした伝兵衛に対して言った勘助の言葉も命を粗末にしがちな昨今の風潮への警鐘として胸に刻んでおきたいものですね。戦国武将クイズ日本史クイズ戦国武将フィギュア