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カテゴリ:SCHOOL EVENTS
近づきたいけれど、そのものにはなりたくない
どう考えても私は天才では無い。だから、天才の書く小説に少しでも自分の作品を近づけたくて日本大学芸術学部の文芸学科に入学した。 先生の書かれた本『賢治文学「呪い」の構造』には、天才と名高い宮澤賢治に秘められた数々の不思議が散りばめられていた。ゼミの課題で私は沢山の賢治の本を読んだというのに、初めて知る話が幾つもあったのだから驚きだ。創作スタイルが夜の森を歩きながらだったということや、彼がゲイかもしれないこと、その生誕と死に際して天変地異が起こったこと。これだけではなく、他にも初めて知る事実はたっぷりあった。 その中で私の興味を引いた話は果たして幾つあっただろう。本に載っているどの話も突飛で型破りで、彼の人生そのものが途轍もなく興味深く感じられた程だったのだから、数えてみるときっと相当な数になるだろう。 一番面白いと思ったのは、石原莞爾と賢治の間に共通点があることだ。満州国建国のために酷薄な行いをした石原と、老若男女を不思議な世界へ誘う賢治に一致することなど何も無いように感じられたため、先生の綴る文章を急ぐように読み進めてしまった程だ。先生のお蔭で、日本史の教科書だけでは分からない戦争の裏側が分かってとても楽しかった。かの東条英機も家庭に戻れば子煩悩な一人の父親だったという。憮然とした表情の写真が残る石原も、妻の前では「莞爾」の名に相応しい、無邪気な笑みを浮かべたのだろうかと思いを馳せて、にっこり笑わずにはいられなかった。 「永遠の未完成、これ完成である」という言葉。「自分の作品には分からない部分もあるかもしれないが、それは私にも分からないことなのだ」という旨のとんでもない発言。そのどれもが彼の特異性を浮かび上がらせた。彼に纏わるエピソードの全てが、彼が天才であることを如実に示している。先生の言うように、彼はきっと殻であったに違いない。そこに何ものかが降りてきて彼を突き動かしたのだ。そうでなければ先の発言は出てこまい。 天才と秀才は違う。前者は先天的に恵まれており、後者は自分で自分の才能を磨いたが故に才を得た。その二つの歴然とした差を、先生の本を読んでいて改めて感じた。天才とは一種の業を背負って生きねばならない、呪われた可哀想な人なのかもしれない。 私は殻では無い。作品を書く際には無い知恵をきりきりと搾り出さなくてはならないので、これでは人を惹き付ける話などまだまだ当分書けそうにない。天才では無いのだから、努力をするしか無い。そう思うとげんなりしてしまう。けれど賢治のように誰かも分からないものに自分を操られることは真っ平ご免なので、今日も地道に小説のネタを考えることにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.27 00:05:39
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