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カテゴリ:野球とスポーツ
亀田興毅戦、TBSに「番組開始から試合までが長い」「判定に納得がいかない」といった抗議や問い合わせが、3万7225件にも上ったという。平均視聴率は42.4%だそうだ。
亀田三兄弟の第一印象、正直言わせていただけるなら、言動は宇多田ヒカルが最初にテレビ出演した時のような、生意気な若僧的な不快感を覚えるし、まず何と言っても彼らの猿顔に違和感を覚える。 あのハチャメチャな言動を格好いいと思って、若者が安易に真似することを教育者の端くれとして恐れている。 話は変わるが、スポーツは「死臭のしない戦い」である。 たとえば球技はどんなに激しい戦いでも、負けた方が死ぬわけではない。 格闘技ですら時代が経つにつれ、死の匂いが徐々に消されていった。 大袈裟に言うならば、競技から死の匂いが消えたことが「近代」というものなのだろう。 かつてローマ帝国では、コロッセオでキリスト教徒が猛獣に殺戮されるのを、大観衆が楽しんだ。 またタイのムエタイは、初期の頃はどちらかが死ぬまで戦ったという。 格闘技の敗者は、土やマットの上に自らの屍が横たわるのを、大観衆の前にさらすのが常だった。観衆もそんな残酷さを望んだ。 ボクシングは格闘技の中でも、最も死の匂いがする競技だ。 亀田興毅はボクサーである。19歳で「死地」に送り込まれる気分は果たしてどんなものだろうか。死と隣り合わせだからこそ、彼は常軌を逸した、一部の人間に不快を感じさせる言動をするのだろうか。 ボクシングは人間の理性ではなく、獣性をフルにアピールしないと勝利にたどり着かない。 顔と言動を見る限り、亀田兄弟は獣性を強く持つボクサーである。 そんな獣性の強い亀田兄弟の試合は、古代の格闘技に見られた野蛮なテイストと、それに付随する死臭を少し感じるし、また3年前の曙VSボブサップ的な、見世物小屋的な匂いもする。 彼らが原初的な野性味を発揮するからこそ、観客は亀田兄弟に興味を持つ。我々はキリスト教徒がライオンに食われる流血の惨禍を眺めエキサイティングするコロッセオの大観衆と同じ心理なのか。 こういう過酷な環境で戦う、堅気とは程遠い亀田兄弟に、常人と同じ言動を求めるのは筋違いな気が私には少ししてきた。 しかも亀田興毅は、まだ19歳だ! そんなことを私はふと思ったのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/08/03 08:07:06 PM
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