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カテゴリ:言語関連
こちらを読んでいて、思い出したことがあった。
「共通の母国語があると、すぐ相手の本性がわかって喧嘩になり関係が長持ちしない」 日本語を学習している米国人の友達がいた。 知り合った頃はお互いに相手の言語は片言程度の会話能力しかなかったので、日本語英語入り混じっての会話であった。 日本企業で働いていたし、日本語学習に熱心だった彼女はめきめきと習得していき、漢字を使ってビジネス文書を書けるほどになった。いつも校正を頼まれたが、間違いの頻度は年々減少。私たちの会話も彼女の学習のためもあり、日本語となる。 といっても彼女と話す時はスピードを落とし、理解している単語を選び、文法にも気を使って話したので、普段話す「日本語」とは若干異なる。一度脳みそで「翻訳」作業が入った。 振り返ってみると感情的な話しをする際、喧嘩にならなかったことに気がついた。 まず感情を母国語で吐き出すように話す。相手に伝えるのが目的ではなく、自分の中のものを出すのが目的。 一度それをしてから、次は相手に伝えるために相手の言語、または母国語を相手が理解できるレベルに直して話す。感情的な状態では頭が整理できないことが多いので、いったん話し合いを休止し、少し時間をおくことが多い。また相手が話を聞く状態にあるかどうかを確認することも常であった。 そのことによりおのずと論理的に話すことになり、感情が整理される。 勢い余って暴言を相手にぶつけるなどということは起こらない。 したがって喧嘩にはならないのだ。 静かな感情のときに話し合うので、自分とは違うということが自然と理解できる。 自分とは違うが相手を理解しようという気になるのだ。 これは相手が外国人であるからということに限らず、共通の母国語を話す者同士でも適用できる関係の作り方であるが、いかんせん、ついつい「いらぬこと」を言ってしまうのである。 それが上記の「本性」なのかどうか。 関係を築くうえの「癖」ではあると思うが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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