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カテゴリ:本
実は、ノーベル賞受賞者についてたいした関心を持っていなかったのですが、先週、白川英樹さんが導電性高分子の発見に関して、セレンディピティという言葉を用いていました。 それは、「何かを探しているときに、探しているものとは違うものを発見する能力」ということです。ウィキペディアの定義はこちらです。 偶然をきっかけに大発見をしたことなどが、セレンディピティと関係して語られるようですが、このセレンディピティの語源となっているのが「セレンディップの三人の王子」という物語とのことでした。セレンディップとは、現在のスリランカですが、三人の王子たちが、困難に対して、偶然の幸運と知恵によって乗り越えていく物語とのことです。今、気になる本のひとつです。 それは、僕たちの人生は、大なり小なりセレンディピティが求められているのではないかと思うからです。何もかも自分の思い通りになるものではなく、しかし、ある偶然が不思議にも良い方向に向かわせることがあるからです。求めているものとは異なるが、しかし、結果的に自分のためになっていることが起こっていることを体験しているからです。特に、人との出会いとはそういうものであったように思います(特に結婚、そして、生まれた子どもとの出会いなどは...)。 それを、僕は「神さまの導き」などと言い表そうとしていたのですが、セレンディピティは、ひとつの能力だということです。偶然のことから、思いがけないことを発見する能力ということで、それには、発見する主体は、ある備えをしていることが考えられます。科学的発見をするものは、科学的思考の訓練、科学的知識から原因と結果を究明する能力を訓練していると言えるでしょう。そうした普段の態度があってはじめて偶然的出来事から新しい発見が起こることがあるのだと思います。 失敗に対して、「前向きで考えよう」などといわれますが、時々、根拠もなく「前向き」が一人歩きすることがあります。でも、その「前向き」を支えるのは、地道な日々の態度なのだ、と気づかされました(それは、すなわち大きな出来事や失敗に対していきなり「前向き」に受け止めるのではなく、日常において常に自分の見ていない面を意識することから生まれる態度ではないだろうか、云々といったことです)。 キリスト教における「待つ」という態度も、セレンディピティという能力に近いものを感じたりしています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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