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カテゴリ:教会
昨日、オリーブ会という会があり、創世記の第1章~2章4節までを話した。
神が七日で世界を作った、という箇所である。 この部分の要点として、次のようなことを語ってみた。 1.この世界は呪われているのではなく、祝福されて造られたもの。「神はこれを見て 良しとされた」という世界の肯定がある。 2.人間が神にかたどって造られている、ということ。神の本性をどこかに宿しているものとして造られている。例えば、「創造」する、ということもその一つ。クリエイティブであるということは、人間の大切な特性であり、遊び、芸術、仕事、人間関係において発揮されるものではないか。もっとも、神の創造は、無からの創造であり、人間のものとは隔絶しているのではあるが...。 誰もが神の似像を持っているということにおいて、人間の平等感がある。古代は特に、支配者層は自分たちに都合のよい神話を導き出し、支配者が神の子であるあるいは神そのものである、という考え方をもって君臨したが、ヘブライ思想においては、人は誰でも神の似像である、ことが示されている(それは、キリストを信じるものが神の子とされる、ということに繋がっている)。 なお、2章以降に描かれているが、人間は自由意志を持ち、それは神に背くことができるほどのものであったがために、神から離れ、本来は祝福された世界を歪めてしまっている。 3.神の創造の業は完成に向かっている(2章1節の「完成された」は未完了) (コメント欄でくまのみさんよりご指摘いただきましたが、これは、間違いです。ヘブライ語のワウ継続用法で、ワウ+未完了の形ですが、完了形として訳します...(~_~;)) 4.六日の人間の創造で世界が完成したのでなく、七日目の安息によって、世界が完成している。安息の時、休みの時が必要とされている。それは、ただ休息するときというよりも、神の祝福を一緒に喜ぶ時として与えられている。 5.この世界は神が造られ、今も支配されているということは、楽観的に語られたのではなく、イスラエルの民が国を失い、バビロン捕囚という苦難を経験して、なお、神に賛美し、希望として語ったことであるということ。 さらに、質問に応じて、 6.被造物を支配させようとして神は人間が造られた、ことについて。 ここには、人間に神から役割・責任が与えられている、ということが示されている。「支配する」ということも、自分勝手に何もかもしてよい、という意味ではなく、神が造られたこの世界の秩序・自然を守る、ということも含めて解釈したい。 他に、言いそびれたこと 7.命あるものには、青草を食べさせる、と語られている。人間にも植物とその実(果実)が与えられている。一方、ノアの洪水以降、草だけではなく、肉も食べてよい、とされている。肉食に対して無制限に許されているのか、考えさせられる。 8.安息日の根拠づけにもなるこの創造物語は、信仰告白として受け取ってもよいものに違いない。 9.神の創造への賛美は、詩編などにも見られる。詩編8編「月も、星も、あなたが配置なさったもの」という部分においても、いろいろと考えさせられることがある。例えば、それらは、ただ夜の光というだけでなく、現代科学の知識においては、惑星や衛星の存在は、その重力によって地球の生命体を隕石の衝突から守るという意味合いもあることが言われている。 などと考えながら、会が終わってから、創世記についてネットで調べてみると、次のブログを見つけた。興味深かったのでご紹介する。町田市議で、落語家の方で、創世記が自分を信仰に導いた、ということを告白している。以下、ブログのアドレスである。http://www.ranjo.jp/campuslife/detail_336.html お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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