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2024.09.11
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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
​​滋賀県大津市石山寺。
琵琶湖を源にする瀬田川の右岸に鎮座する真言宗の大本山、本尊は如意輪観世音菩薩。
枕草子、源氏物語、浮世絵、近代文学を育む舞台ともなり、養老2(718)に開かれた西国三十三所観音霊場の第13番として古くから崇敬される古刹。
広大な境内には東大門や舞台造りの本堂、多宝塔など多くの伽藍が建てられ、内陣や豊浄殿を拝観し伽藍を見て回るだけでも相当の時間を要します。

「朗澄大徳ゆかりの庭園」
石山寺東大門の右手にあり、石山寺の玄関口と言ってもいいかもしれない。
ピンクの花を付けたサルスベリの先に、小さな泉と鬼の姿が彫られた石碑が立てられています。
この鬼は石山寺中興の祖 朗澄律師(1131-1209)。
亡くなる際に「一切経を守護し万民の降魔招福の為鬼の姿になる」と誓い石山寺を護ると宣言し自ら鬼になったといいます。
寺には朗澄律師が画いた多くの絵や書写が残ります。
また、本堂東に天狗杉と呼ばれる杉の巨木が聳えており、鬼と化した朗澄律師が寺を見護る姿が見られたという。
石山寺東大門も視界に入り、先に進みたいところですが、間口も小さく素通りしそうな「朗澄大徳ゆかりの庭園」立ち寄ってみたいところです。

西国13番札所石山寺東大門。
瀬田川右岸沿いに建つ入母屋瓦葺の八脚門。
寺伝によれば、建久元年(1190)に源頼朝が寄進したとされ、幾度か焼失・再建を繰り返し現在の門は豊臣時代の淀君により修理されたという。

両の間の仁王像は運慶・湛慶の作と伝わるもの。

東大門扁額。

東大門から眺める石山寺参道。
石山寺は聖武天皇の勅願を受け良弁が開いた事にはじまります。
石山寺境内マップ。
仁王門をくぐった参道の両脇に明王院・密蔵院・大黒天等の塔頭寺院が連なり、チケット販売所から右側に本堂、多宝塔などの主要伽藍が集まっており、最深部の豊淨殿や光堂、紫式部像や八大龍王社など見て回るだけでも2時間程要し、主要伽藍以外の大河館や他の見所を見ていくと半日コースとなるのでは。
石山寺は古来より文学作品に登場し、紫式部が源氏物語を起筆した寺で、松尾芭蕉や島崎藤村なども滞在するなど文学の寺として知られています。

東大門から先の石畳の参道。
新緑やさつき、紅葉時期は鮮やかに彩られるだろう。

大黒天堂。
参道右側に山門を構え、堂内には万寿元年(1024)の頃、石山寺の三人の僧の夢の中にお告げがあり、
琵琶湖より出現した拳印大黒天を安置したのがはじまり。
右手親指をうちにして拳を握る、秘仏の拳印大黒天像は福招きの神として崇められ、子年の年に公開されるという。

左から大黒天堂の全景。
鎌倉時代の再建とされる入母屋瓦葺の妻入りで、幾度かの補修を受けながら現在に至る。
堂の左には苔庭があり、その中央に七宝を入れた大きな袋を担ぎにこやかに微笑む大黒様の像が安置されています。
袋の中身は物質的な七つの宝物が入っているといわれます、一方で内面的な幸福をもたらす寿命・裕福・人望・清廉・愛嬌・威光・大量の七つの宝が入っているとも云われます。

参道脇の案内図。
緑濃い境内は四季折々に彩りを添える樹々が植えられ、特に苔が多く自生する寺の印象を受けました。

公風園。
参道左に山門があり、その先に和傘と牛車が置かれ、絵巻に描かれる雅な世界が広がっています。
オープンカフェとして開かれることもあり、運がいいと中に入れるようです。

参道先の志納所の前に手水舎があり、そこには見事な髭を持つ龍の姿がある。

必死の形相で清水を注ぐ龍、その後ろで仕事ぶりを監視する不動明王の姿。

手水舎から右の石段を上れば堂宇のある境内が見えてくる。

境内正面の眺め。
手前が天然記念物の硅灰石(けいかいせき)。
石灰岩が地中の花崗岩を含むマントルと接触して変質したもの、後方に日本最古の多宝塔が聳えています。
人が作り出した造形美と、大自然が作り出した石庭が見事に一つになり美しい光景を魅せています。

境内右側の観音堂(奥)と毘沙門堂。
毘沙門堂は瓦葺の入母屋造で、堂内には兜跋毘沙門天、吉祥天、善膩師童子を祀ります。
安永2年(1773)棟札が残る。

境内の各所には上の写真のように石山寺縁起絵巻とともに、縁起が紹介され実物を眺めながら往時をイメージすることができる。
下は毘沙門堂の解説。


方形瓦葺の観音堂には西国三十三所霊場の観音像が安置されています。

御影堂。
毘沙門堂の左にある方形造の建物で、堂内には真言宗の開祖弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供の像が安置されています。

境内左の眺め。
左の入母屋の建物は蓮如堂。
慶長7年(1602)に建てられ、文化8年(1821)に手が入れられ桟瓦に変更されたもので、堂の左側が傾斜地となっており、一部舞台造りになっています。
本堂に続く参道を挟んだ右側に三十八所権現社があり、蓮如堂は拝殿として使われていたようです。
参道正面の大きな屋根が石山寺本堂になります。

蓮如堂向かいの硅灰石の岩山に鎮座する三十八所権現社。
木造の両部鳥居とその先に本殿が建てられていますが、鳥居に続く参道は見当たらない。
鳥居の額には三十八社とある。

石段の手前から本堂の舞台造りの眺め。
左は本堂の解説。
「桁行七間、梁間四間の寄棟造の本堂と、桁行9間、梁間四間の礼堂を相の間が結ぶ檜皮葺の建物。
本堂は天平宝字5~6年(761-762)に拡張され、その後、承暦2年(1078)に消失した。
現在の建物は永長元年(1096)に再建されたもので、慶長7年(1602)淀君により建て替えられたもの。」

石段を上ると石山寺縁起絵巻の一場面が掲げられており、当時の姿を今も留めていることが分かります。


石段を上った正面の火灯窓の小さな間が紫式部源氏の間。
寛弘年間(1004-1012)、紫式部はここに参篭し源氏物語が生まれた。
紫式部が愛用した硯は豊淨殿で見ることができます。

礼堂縁から礼堂方向の眺め、
本尊は勅封秘仏二臂如意輪観世音菩薩で、安産・福徳・縁結び・厄除けにご利益があり。
観音は33の姿で人々を救済することにちなみ、33年ごとに御開扉が行われ、直近は2016年に行われています。
内陣は有料ですが、本尊を安置する厨子を取り囲む様に安置された仏像を間近で拝むことができます。
御朱印は礼堂内で頂けます。
縁から下を見下ろすと、この建物が舞台造りなのが実感できると思います。

石山寺本堂。
県内最大の木造建築物で右側の火灯窓が源氏の間。


本堂から右に参道を進むと三十八所権現社の本殿に至ります。
鳥居の下には先程通った参道と蓮如堂を見下ろす、鳥居はどう見てもくぐれない。

天智天皇までの歴代天皇を祀る石山での鎮守社。
本殿は一間社流造の檜皮葺で、苔むした硅灰石の岩山の頂に鎮座しています。
現在の本殿は慶長7年(1602)の蓮如堂建立時のもの。

三十八所権現社から更に上に進んだ先の経蔵。
いかにも重要なものを保管していた事を思わせる高床式の校倉造の建物で、以前は石山寺一切経、校倉聖教等の経典が収蔵されていた。
建立年代は定かではないが、長い間経典を収蔵してきた趣を感じさせる。

解説によれば滋賀県では数少ない校倉造で、切妻造の校倉も類例が少ないとある。
自分の過去の写真を遡ってみると確かに寄棟や宝形ばかり、切妻は珍しいのかもしれない。
「全体を見せて」となりますが、団体客にかち合ってしまい、後回しにしたまま撮り忘れていた。

経蔵の裏側。
苔生した一画に2基の宝篋印塔があります、こちらについて解説はなかった。

余談になりますが、気象の変化と乾燥化に伴い、こうした苔も種類が変わったり、減少していると聞きます。
陽射しが入り、人が踏み荒らすと自然のダムも消えるのは早いだろう。

紫式部供養塔(左)と松尾芭蕉句碑(右)。
句碑には「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」とあり、碑は寛永2年(1849)に建立されたもの。


経堂の正面に見える鐘楼。
入母屋檜皮葺で白漆喰の袴腰が付くもので、優雅な外観の鐘楼です。
建物は源頼朝が寄進したとされ、吊るされる梵鐘は金属類回収令を免れ、平安時代のものが残る。

この辺りから観音堂などが鎮座する境内の眺め。

上を見上げると優美な反りの軒を持つ多宝塔が聳えています。

日本最古といわれ、もっとも美しい姿の多宝塔と称賛され、国宝に指定されています。
建久5年(1194)、源頼朝の寄進と伝えられます。
一層部分は桁行3間、梁間3間の方形で、二層は廻り縁の付く円形で、白漆喰と檜皮屋根のコントラストが美しく、安定感を感じる均整の取れた塔です。
内部の須弥段には大日如来坐像を安置し、四天柱には金剛界の諸尊や五大尊が色鮮やかに描かれているそうです。

石山寺は長い歴史の中で、戦禍に巻き込まれ伽藍を焼失することがなかったため、紫式部や頼朝などが見て、踏みしめた当時の姿がそのまま継がれています。

本尊は鎌倉時代の仏師快慶作。
この日は下層の扉は閉ざされ、内部は拝めなかった、運が良ければ扉は開けられ、四点柱の絵も遠目に見れるようです。

多宝塔の横に鎮座する若宮。
解説には「祭神に天照大神拝し、大友皇子(弘文天皇)を崇る。
壬申の乱の折、この地に葬られ、古来より寺僧により密かに手厚く供養されてきました。三十八所権現社が親神に当たります」とある。

月見亭。
多宝塔の右奥にあり、平安時代後期の保元年間(1156-1158)、後白河天皇行幸に合わせ建てられたとされます。
現在の建物は貞保4年(1687)に建てられた寄棟の建物で当時は萱葺だったようです。
舞台は迫り出した崖の上にあり、袴腰で覆われた舞台造りで、四方吹き抜けの高欄が廻らされたもの。
月を愛で和歌を詠むための建物で、歌川広重の近江八景「石山秋月」にも描かれている。
やはり晩秋の名月の夜に見るべきものかもしれない。

多宝塔の後方に鎮座する心経堂。
檜皮葺の宝形屋根の建物で、朱塗りが鮮やかな堂。
建立は平成2年と新しいもので、内部に如意輪観世音菩薩と写経を収める輪蔵が安置されている。

豊淨殿で所蔵する宝物や美術品を拝観し、光堂方向の帰り道に向かう。

境内最深部の光堂と紫式部像。
光堂は鎌倉時代には存在したとされ、平成20年に新たに建立された舞台造りの建物、内部には阿弥陀如来像を安置する。

光堂から下に続く参道脇に写真の像が安置されています。
世界的な文芸作品「源氏物語」を創作した紫式部、書き連ねた道具は紙から始まり、筆や墨など当時は貴重なものだっただろう。
エアコンも冷感素材もない時代、十二単はいかにも暑そうだ。

参道を下った谷筋に鎮座する八大龍王社。
周囲は濃い緑に包まれ、龍穴の池から流れ出た沢が流れ、それまでの乾燥した雰囲気から、木陰と一面に苔が広がる空気感の違いを感じる場所です。

龍穴の池と中島に鎮座する八大龍王社本殿。
「石山寺の暦海和尚がこの池の畔で孔雀経を読むと、池の中から龍王たちが現れ、経を聞いたとされる」
その様子は石山寺縁起絵巻にも残されています。

西国札所観音霊場補陀洛山の石碑。
八大龍王社から沢沿いに本堂方向に進むと、右側に苔に包まれたこの碑が建てられています。

天智天皇石切り場。
天智天皇の御代の石切り場で、切り出された石は瀬田川、淀川を経て大和川を遡り、飛鳥の地まで運ばれ礎石に使われたという。

天狗杉。
本堂の礼堂下あたりに聳える大杉で、中興の祖朗澄律師が鬼と化して寺を見護る姿が見られたという。

石山寺水車。
石山寺縁起絵巻に瀬田川の水を汲み上げる水車の絵が描かれ、水田の傍らの水車小屋で脱穀した記録がある。
石山寺の縁起を記した石山寺縁起絵巻は全7巻、33段に及び、正中年間(1324-1326)にはじまり、全巻完成までに500年を要したとされます。
その絵巻の世界が今も残るのが石山寺です。
ここまでが今回石山寺を訪れて巡った所で、境内には今回スルーしたところや、大河ドラマ館もあり実に見所が多い。

石山寺
山号 / 石光山
宗派 / 東寺真言宗
創建 / 天平19年(747)
開山 / 良弁
開基 / 聖武天皇
中興 / 朗澄律師
本尊 / 如意輪観音
札所 / 西国三十三所第13番
所在地 / ​​滋賀県大津市石山寺1-1-1
公共交通機関 / JR東海道本線「石山駅」乗り換え、京阪電鉄石山坂本線​「石山駅」降車​、東大門まで徒歩10分
参拝日 / 2024/08/22
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Last updated  2024.09.26 11:59:21
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