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2024.09.12
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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
名古屋市中村区権現通に鎮座する熊野社。
前回掲載した神徳稲荷神社から南東に400㍍、徒歩で5分程の距離になり、鎮座地の権現通も熊野権現に由来するものです。
鎮座地は名古屋駅から直線距離で南西1㌖程の住宅が広がる地域に鎮座します。
住宅地にありながら、この日巡ってきた神社と比較するととても開放感があります。
この開放感は社頭南側の米野公園が大きく貢献しているようです。
土が露わになり、風の通りを遮る建物がないので熊野社の社叢は風が良く通り、外回りの仕事に従事する人には癒しの場になっています。

また、熊野社は先に掲載した西米野町の若宮八幡社とは深い関わりがあります。
そのあたり、境内の由緒の所で記載します。

熊野社には3つの参道があり、其々に鳥居を構えています。
写真は社地の北側の鳥居で常夜灯、社標が立ち、当初はこちらが正参道と勘違いしていました。

上は明治31年とほぼ現在の地図の比較から鎮座地の変貌ぶりを見ています。
古くは愛智郡薦野郷の一部で、昭和14年(1939)中村区米野町の一部から権現通が生まれました。
明治の地図では周囲を田園地帯に囲まれ、海抜1.7と記された辺りが鎮座地。
地図上に鳥居の記載はありませんが、何か対象物がありここで測ったと思います。
この場所に鳥居が現れるのは大正9年になってからでした。

北側社頭全景。
右手の社標は明治42年(1909)健之のもので、そこには「熊野社、若宮八幡社」の二社の名が刻まれています。幟旗を立てる石柱は明治期に、白い神明鳥居は昭和49年に寄進されたもの。
常夜灯の元号を見忘れましたが、石の色合いから明治時代のものに見えます。
境内は参道正面の舞殿と白明龍神社へ続き、参道右側に南向きに熊野社社殿、境内社が祀られています。

参道から熊野社社殿の側面と境内社(子安社)の眺め。

子安社右の石碑。
「明治百年記念 明治天皇御製
あさみどり 澄みわたりりたる 大空の 廣きをおのが 心ともがな」

広く澄み渡る大空を見て、自分の心も広くありたい、明治天皇の心境を歌ったものだろうか。

子安社正面全景。
一対の狛犬と参道の先に提灯櫓、拝所の先の本殿と続く。

子安社の狛犬(昭和2年)。

拝所と赤い門の先の本殿域。
拝所のなかに子安社の扁額は見られなかった。

神明造の本殿。
内削ぎの千木、6本の鰹木が載り、所謂女神を祀る神社となるが、社名札はなく、赤い門の印象から秋葉社に見えなくもない。

本殿右の由緒から子安社の実感が湧く。
子安社由緒は以下のようなもの。

「祭神 木花之佐久夜毘売命
由緒 享保18年(1733)8月御鎮座
 安産の守護神である木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃であり、一夜の契りで妊娠しました。
しかし、他の神々に疑われたため、恥ずかしさと悔しさから戸のない室を作ってその中にこもりました。
 そして、「もし他の神の子ならば無事に生まれないだろうが、天神の子であれば無事に生まれるだろう」と誓い、無戸室に火を放ちました。
火の中から火闌降命(ほすそりのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、火照命(ほでりのみこと)の三柱の子供を無事に生みました。
 このような縁起から、妻が妊娠した時にはどんな苦労や障害があっても負けず、心の妄想や邪念を払い除け、良い子宝を授かるように神前の箒(ほうき)を借りて出産まで日々心の塵や垢を払うことを念じ、子の安産を祈ります。
そして、出産後には感謝の気持ちを込めて新しい箒を添えてお納めします。
 毎年7月に行われる茅の輪禁厭行事は、子供の虫封じや悪病除けを祈念する行事です。
昭和43年10月吉日」

我が家は妊娠の際には八事の塩竃神社で御祈祷をあげて頂きました。
息子達が無条件に可愛かった頃は最寄りの神社で茅の輪くぐりや赤丸神事御世話になったものです。

境内東に常夜灯の火袋が並べられていました。
拝殿前には火袋のない常夜灯が立っており、おそらくその火袋なんだろう。
天災・戦災?なぜこうなったのか興味は湧いてきます。

舞殿と白明龍神社全景。
白明龍神社境内には大きなイチョウの樹が聳え、その根元には樹洞があり、主が潜んでいそうな雰囲気が漂う。

舞殿左の東参道。
明治42年に寄進された神明鳥居で北側の社標と同時期のもの。

白明龍神社。
詳細は掲げられておらず、由緒や創建時は不明。

御神木の樹洞、中に小さな社が収められている様に見えます。

本殿は内削ぎの千木と5本?の鰹木が載せられています。

白明龍神社から熊野社社殿の眺め。
境内にはイチョウや楠木、欅の大木が聳え、大きな杜を形作っています。
杜にも鬱蒼とした暗い印象の杜もあれば、程よく木漏れ日が入る明るい印象の杜がありますが、熊野社の杜は後者の印象を受け、炎天下から境内に入ると居心地がとてもいい。
社殿は切妻妻入りの拝殿と幣殿・本殿が連なる。


土間の拝殿と奥幣殿。
妻壁には大ぶりの熊野社の扁額が掛けられています、拝殿の床は土間打ちで四方は吹き抜けになったものです。

拝殿前の狛犬、こちらも明治42年に寄進されたものでした。

拝殿額。
熊野社由緒は以下。

「祭神 伊邪那美大神
由緒
 尾張志に正徳2年(1712)御鎮座
明治4年村社に列格
 昭和3年神饌幣帛神社に指定
例祭10月13日」

鎮座地の笈瀬村米野は、古くは愛智郡薦野郷の一部で村の歴史は江戸時代以前、室町時代にまで遡るようです。
熊野社の由緒が「尾張志の正徳2年(1712)」とあることから、それ以前からなにかしら祀られていたものと思います。
先に記載した仁徳天皇を祭神とする若宮八幡社は、明治42年(1909)にこの熊野社に合祀され、昭和26年(1951)に再び分離されました。
分離後の熊野社には祭神の仁徳天皇は祀られおらず、境内の熊野社由緒にも祭神仁徳天皇は記されていません。
北側社頭の社標の寄進年が明治42年(1909)なので、熊野社合祀の際に建てられ、アップデートされなかったものでしょう。

境内西側から見た社殿全景。
左側にも境内社が祀られています。

御霊社。

内削ぎ千木、6本の鰹木が乗りますが、社標や常夜灯の寄進年を見忘れ詳細は未確認。
御霊社と熊野社本殿。

拝殿から南側の正参道と米野公園の眺め。
竿だけの二対の燈籠はなにを語っているのだろうか。

南参道の手水舎。

龍はいないが清水は澄んだもので、鉢も明治42年寄進のものでした。

南参道の鳥居の先には神馬像と手前に子安社と熊野社の由緒があります。

熱田神宮宮氏による揮毫で、熊野社の祭神に仁徳天皇は記されておらず、伊邪那美大神一柱となっています。

南側の米野公園から眺める参道。
石の神明鳥居は昭和13年の寄進で、右の「村社 熊野社」の社号標は村社の文字が消され、若宮八幡社の社名は刻まれていません。
江戸時代からこの地を見守り続けてきた熊野社、かつて合祀された若宮八幡社の仁徳天皇が今も祀られているとするものは、由緒書や寄進物からは見つけられなかった。

今回の炎天下の笈瀬村神社巡りは熊野社含め六社で終わる事にしました。
また名駅に来る予定もあり、ここから南はその時に巡る事にします、今は早く冷たいビールが飲みたい。

熊野社
創建 / 正徳2年(1712)
祭神 / 伊邪那美大神
境内社 / 子安社、御霊社
所在地 / 名古屋市中村区権現通3-37
参拝日 / 2024/08/02
神徳稲荷大神から熊野社 / ​南東の米野公園まで移動時間5分程​。
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Last updated  2024.09.12 00:00:22
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