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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
飛騨高山、軒を連ねた町屋や造り酒屋が点在する城下町の風情漂う三町伝統的建造物群保存地区は国内外から訪れる観光客でいつも溢れるところです。
先に掲載した桜山八幡宮参道脇の秋葉社もそうした場所に鎮座していましたが、桜山八幡宮から寺院が多く鎮座する右方向の東山遊歩道方面はしっとりとした静かな高山を感じられます。 桜山八幡宮の南を流れる江名子川沿いに5分ほど遡ると道路左側に若達町2の秋葉神社が祀られています。 こうした町角の秋葉神社は高山市内だけでも約60社近くも祀られ、規模の大小や社の造りなど様々のものがあります。 それらは親しみを込め「秋葉さま」と呼ばれ、現在も各町内の当番制で大切に守られる身近な神さまです。 城下町の趣漂う高山の町角に小さな社が祀られているのには、そこに住む者しか分からない過去の戒めがあります。 過去の記事から引用すると、「奈良時代には飛騨の中心として栄えていた高山ですが、現在の城下町の礎が築かれたのは、金森長近による高山城の築城より形作られたといっても過言ではないでしょう。 木造家屋が軒を連ねる事から、高山の町は江戸時代からでも幾度も大火を経験しています。 享保14年(1729)には975軒、天明4年(1784)には2342軒を全焼する大火を経験しており、一度火が出れば延焼を防ぐために周囲の建物を壊すことが当時の消火のセオリーだったはず、火に包まれなくとも火元近くの我家は壊されていく。 城下町に住む者は運命共同体として火に対する意識は高くなって行き、意識だけで補いきれない不安は火伏の神を祀る事で心の安心を得た。 高山市内には多くの秋葉さんが祀られ、それらは今も変わることなく身近な存在として大切に護られています。 地元名古屋の旧城下町も同様で、火伏の神は減ったとはいえ、四間道などでは屋根神として軒下に祀られる姿が残ります。」 上は大正15年に発行された高山町火災図。 左は天明4年(1784)3月20日の火災範囲と、寛政8年(1796)7月6日の火災。 中央が天明7年(1787)、天保3年(1832)、嘉永3年(1850)、明治、大正時代の類焼図。 右が享保7年(1722)、天保元年(1830)、明治、大正時代の類焼図。 類焼範囲が赤で記されており、中央の図の青丸が今回訪れた秋葉社の位置になります。 こうして見ると宮川右岸の城下町はほぼほぼ大火に見舞われていることが良く分かります。 時代も変わり、住宅の建築様式や消防技術は向上しても、古い町割が変わる訳ではないので、住民の防火意識や禍除けを祈願する気持ちは今も変わりません。 若達町2の秋葉神社全景。 社地の四方を壁で囲い、覆屋の妻壁に秋葉神社の額が掛けられています。 自然石の基壇の上に神明造の社が祀られています。 社地に一基の燈籠が建てるのが一般的な様で、夕方になると灯りが灯されます。
こうした秋葉社の例祭日は1月、5月、9月の各17日に行われてきたそうですが、今では4月、9月の彼岸に行う組もあるようです。 時折インバウンド客も通り過ぎますが、見向きもされず通り過ぎていきますが、小さな神社にも意味があり、その土地の歴史を語る存在です。 秋葉神社 創建 / 不明 祭神 / 迦具土神 所在地 / 岐阜県高山市若達町2丁目 参拝日 / 2024/10/16 関連記事 ・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加 ・秋葉神社(鳳凰台組) ・櫻山八幡宮(高山市桜町) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.11.05 08:21:30
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