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カテゴリ:沖縄
私の家はかれこれ30年ゴミ収集場所になってる。家を建てこちらに越したときにそういうことになっていた。年々ゴミの量は増えつづけ、不法投棄なども日常茶飯事。争いごとの嫌いな父もようやくどうにかしなけばと、近所の人に促す。しかし、ゴミ捨てに対する皆の意識の低さ。自分の目の前からなくなればそれで良いのだ。ゴミ収集場所にされた家の苦悩など考えも及ばないだろう。
たとえが悪いが沖縄の基地もそんな私のゴミ収集場所と似ている。他人は、気が付きもしないのだ。もちろん、自らうちが収集場所になりましょうなんて人がいるわけがない。 気付いたものが議論すべきと大声をあげる。じゃああなたが何とかすればで終わってしまい何の議論もうまれない。 沖縄の基地問題について首都東京から考え直そうと言っても、おかしな目で見られてしまう。かかわらずにいておこうと思われるのだ。 沖縄県民の戦争に対する被害者意識が理解できないという人に、私は、それは戦後の処理、基地問題にあり根深いのではと言う話をした。で、自分の無知は加害者に値すると。でもそれは、沖縄熱にかかってしまっているのかもと。(沖縄県民は国の政策を批判しても本土の人を批判しているわけではないのだが) それに対し、それは沖縄熱だねかわいそうにという内容のこと言われてしまい、議論するすべも、気力も閉ざされてしまった。 失敗したと思った。彼女は、同じ日本人で戦争と言う極限のさなかに被害者、加害者を分ける事を嫌悪しているのだ。それなのに、私は、基地問題を伝家の宝刀のごとく抜いて見せた。沖縄ノートで、大江健三郎が自らを醜い日本人と言っていたが、彼女にとっては、芥川賞作家だろうが、ノーベル賞作家だろうが、一個人としたら、沖縄熱に犯された偽善者に過ぎないのかもしれない。 人に理解してもらわないまでも、認識してもらう難しさ。 所詮、内地のものが基地問題を語るのは偽善に過ぎないのだろうか? 沖縄の人は今、幸せなのだろうか?(戦争がなくて、毎日ご飯が食べられる今は幸せに違いない)もし幸せならばもう何も言うまい。 確かに、過去は過去今は今の交流の仕方がある。ただ、過去を置き去りにして今を突き進んで良いのだろうか?(韓国ブームで、新しい日韓交流も生まれた。竹島問題なんてもうどうでも良くなってる。本当にそうなのか?) さっぱり解らなくなっている。 沖縄ブームで沖縄大好きな人がどんどん増える事は沖縄を理解するためにもとても良いことだと思っている。自然満喫、癒しの島、ファンタジー。 好きになれば好きになるほどその負の部分ばかり見えてくる私は、やはり沖縄熱のせいかもしれない。 以前話した沖縄の男性が、「基地問題で大騒ぎしているの、共産党と主婦連ぐらいよ。」(そう言う彼は、当時公共事業で名護市建設の高校高専の建設に携わり、保守派支持ではあったが…) 県内を米軍基地で占め、58号線のバイパスも作れず、いまだインフラが整わなくてもそう言う。米軍関連産業で働いている人、公共事業関連で働いている人、公務員、沖縄は、基地と向き合っていくことを決めたのか? 基地問題を沖縄の問題として片付けて良いのなら、その見返りの地域振興、経済発展を、享受するのはまっとうだと思う。消費することで発展してきた日本経済を、沖縄が追随することに、環境破壊と非難するのはやめよう。 沖縄のこととしてそっとして置こう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.10.28 19:44:41
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