|
カテゴリ:立原道造の森
先日の土曜日、詩人で建築家だった立原道造を偲ぶ、
風信子忌(ヒアシンスき)が行われましたが、 毎年この風信子忌は、3月の最後の土曜日ということになっています。 1939(昭和14)年3月29日、立原道造はこの世を去りました。 咽喉から腸まで結核菌に冒されていた道造の肉体は 咽にひっかかった痰を自力で切ることも出来ず そのまま息を引き取ったのだそうです。 数年前の1月に69歳で亡くなったわたしの父も、 やはり若い頃病んだ脊椎カリエスを一生持って歩き 道造と同じような状態で亡くなりました。 東京の春空にも満開の桜が舞うこの季節、 立原道造の死と父の死がオーバーラップする今日この頃です。 29日に亡くなって 4月2日の今日、いまごろ、息子を亡くしたお母さんや 兄と別れた弟さんは、どんな思いだったんだろう。 道造が師と慕った堀辰雄は何を思っていたろう、 そんなことも思いました。 死を早めたと言われる、盛岡と長崎への二つの旅をつづった 「盛岡紀行」と「長崎紀行」。 これまでの言い習わしでは「盛岡ノート」、「長崎ノート」という その2冊のノートを、また何度目かに読んでいます。 「盛岡紀行」は、次のような書き出しから始まっています。 汽車はいま山形をすぎた――燈火管制の最中で町はまつくらだ ここに降りても案内がわからないので 楯岡まで行くことにした …… 窓はみな 鎧戸をおろしてゐる 先刻まであかりは 半分だけ 消されてゐた そして ついてゐたのはくらい電球だつた まだ 宵は浅い 外の方がひよつとすると明るいくらいだ 東京でも また燈火管制だらうか 最初の一頁の最初の記事は「夜がくらい」といふことだ いひ かへれば「くらい夜を通つて」といつてよい それがどういふこ とだか僕は知らない 間もなく 今夜の宿に着くだらう 窓から 水つぽい植物のにほひが 風と一しよにはいつて来る [筑摩版新全集第3巻所収] 最近また、立原に凝りだした頃の最初に読んで 意味がよくわからず苦労した(^_^;)、田中清光著『立原道造の生涯と作品』を 読み返しているのですが、その中でも 「東北の旅のノオトの書き出が、不吉な燈火管制の暗い街をながめながら はじめられたことを、想い起す。」とありました。 日本が戦禍に荒廃する、そのはじめの時代に 立原道造は生きて、自らのこころの旅をしていたのですね。 ついでといっては何ですが しばらく前からこれもなな猫的に凝りだしたものに 麥書房の本があります。 「麥」という字は、今では「麦」ですが やはりこの麥書房は、麥でないと感じが出ない。 麥書房の本を幾つか集めていて、この『立原道造の生涯と作品』も 版を違えて2冊も持っているのですが(^_^;) こうなったらビョーキですので、今後もこの伝で 同じ本の違う版を集めてしまうと思います。 集めるだけで飾っておく蒐集家と異なり なな猫の場合は、どれも、場合によっては何度も読み どれにも消える色鉛筆で線引きしてあるという、ご大層な気の入れ方で(>_<) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年04月02日 14時27分39秒
コメント(0) | コメントを書く
[立原道造の森] カテゴリの最新記事
|