ワタシの食の変遷記~第3章 家族の命を預かる立場になって~
さて、ここからは結婚後のことです。東京から福岡に嫁ぎ、いわゆる「長男の嫁」として大家族の中での生活となりました。はじめの一年は完全同居で、夫、夫の両親、夫の祖母、という家族構成でした。食事は姑と私と二人で一緒に作るので、「今日、なんする~?」「お魚煮る?」「じゃ、つけあわせはそのお汁でナスを煮ようか」なんて感じでメニューを決めて、作ります。幸い、といっては何ですが、舅が糖尿病でその為に姑も食事には気をつけていて、和食が中心の家庭でした。不思議なことに、“家族の命を預かる立場”になって食を考える時、自然と自分の母から伝えてもらった食に関してのベースがちゃーんと戻ってくるのです。と、いっても、独身時代ろくに包丁も握らずに来た20代の私が、何が作れるか、というと・・・たいして何も出来ないので、一般的な料理本を見て作ったり、母が作ってくれて自分が好きだった料理を作ったりしてました。ただ、姑が使っていた調味料は、味の素はじめ醤油も「アミノ酸調味液」なんてのが一番に成分表示してあるようなもの、塩も精製塩etc私の実家にあったものとはかけ離れていたので、姑に話をしたり、主人から上手に協力してもらったりして、調味料は変えていきました。まず、塩は自然塩に、醤油はまずは生協のものに、砂糖はきび砂糖に、そして味の素はゴミ箱へ・・・調味料が変わるだけでも、随分違います。でも、この調味料こそ、食事を作る人にとっての習慣になっているものだけに、変えるのは難しいのです。我が家では3年かけて調味料を変えました。やっぱりムリヤリはいけませんから。野菜は幸い家庭菜園には十分な畑があり、そこで季節の野菜を祖母や舅が作ってくれていたので、足りないものを、生協で買いました。(九州にはグリーンコープという生協の中でも 質のよい品を扱っているところがあるので、 結婚と同時に姑とここを主に利用するようになりました。)お米も、食べる分は田んぼで家族でお米を作っているので、自家製米を食べることが出来ました。笑っちゃうのですが、あんなに子どもの頃イヤだったくせに、玄米を食べたくて、結婚直前に実母と講習に行った“長岡式酵素玄米”を、主に自分の為に炊きました。舅は“米はやっぱり銀シャリ!”という人で、雑穀米や玄米なんて貧乏人が食べるもの、という偏見が残っていて、“なんでわざわざ玄米なんて”と全く興味なし、でしたが、祖母や姑は時々「これ、玄米なのに軟らかくて食べやすいし美味しい」と言って食べたりしていました。(注:この長岡式酵素玄米は、炊き方が決まっていて、 量としては一升炊きをして、保温ジャーで保存しながら 食べるので、1回炊けば、一週間位ジャーに酵素玄米が 常備されている状態なのです。 ちなみに、玄米はよく噛んで食べる、というのが鉄則ですが、 この玄米は飲み込んでもいい、という位消化が良いのです。 )肉も魚も料理しましたが、舅の糖尿病のおかげで主に魚料理が多く、野菜を摂ることにも積極的だったし、その野菜も自家製で新鮮だったので、あまり手の込んだ調理をしなくても済んだので、やりやすかったです。ただ、ものすごく牛乳を飲む家で、夫などは水代わりに牛乳やコーヒー牛乳を飲んでいたので、それだけは控えて欲しい、と、これも時間をかけて理解してもらい、一緒に真弓定夫先生の講演会に行ってもらったりして、少しずつ牛乳は嗜好品程度に、と量を減らしてもらいました。(でも、やっぱり大好きみたいで、今でも 割と飲んでますね~。習慣って一気には変えられないし、 だからこそムリに変えようと思ってはダメですね。)結婚して3ヶ月後に妊娠し、食に対しての理解がしてもらいやすいタイミングだったのもラッキーだったということでしょう。次回は妊娠中の食事について、です☆