「ローマ人の物語8 ユリウス・カエサル(上)ルビコン以前」
塩野七生 (新潮文庫)
なぜか8巻から読み始めた「ローマ人の物語」。
きっと読み始めたら、一気に読みたくなっちゃうだろうから、時間のある時に読もうっと。とかなんとか言って、人生の中で保留にされている本の一冊(シリーズ)でもある。
でも読んじゃった。しかも途中。しかも(上)しかもここはプノンペン。つ、続きが...
ユリウス・カエサル=ジュリアス・シーザーと言ったら、かれこれ2100年前の人物。なのに超有名人。
シーザーサラダで、帝王切開(Caesarean Section)で、カイザー(Kaiser)で、ツァーリ(царь)。ガリア戦記、クレオパトラ、賽は投げられた、ブルータスお前もか etc.
ちょっと思い出すだけでも、まだまだこれだけ現代の日本人の頭にさえインプットされているのだから、エラいことです。
この(上)で印象に残ったのが、カティリーナ事件後の暗殺未遂事件犯人を、断罪する(方策を決める)にあたっての元老院でのカエサルのスピーチというもの。
「あらゆる刑罰は、その人の犯した罪に比べて低めに抑えられるべきである、と。しかし、多くの場合、これに気づくのは後になってからだ。人々は刑罰について議論するときは、罪とされることの本質を忘れ、刑罰そのものが重いか軽いかしか考えなくなる。」
あと、実行はすなわち前例を作るということに他ならないという趣旨の部分。これは覚えておこう。
私も数ヶ月前、とある人物の行動とその結果に基づき、彼の進退に対する決断を下すという経験をしました。
罪が云々という程の話ではありませんが、自分の判断と決断が他人にマイナスの影響を与えるということが分かっているだけに、なかなか決断に踏み切るのが苦しかった。
なるほどこれが「罪を憎んで人を憎まず」という心境か?と思いました。でもやっぱり人がいると罪もなくならないんだけどねー
日本でも裁判員制度が始まったそうですが、これまたエラいことです。
いろいろちゃんと考えて、腹を据えていかないといかんと思う。(行くなら。)なんかあんまり評判が悪いんで、早晩ポシャるのではないかという気もしますが。
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