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カテゴリ:豊橋市/豊川市
武田信玄の軍師、山本勘助の生誕地は三河八名郡賀茂村、(現)豊橋市加茂町出身で、川中島の合戦で討死し、墓は豊川市牛久保寺町の長谷寺(ちょうこくじ)にある。
『山本晴幸誕生地』と書かれています。以下は案内板より『<武田の軍師、山本勘助晴幸生誕の地>山本勘助の先祖は清和天皇の後裔、新羅三郎義光の三世、山本遠江守義貞から出たと言われています。家は代々駿河国富士郡に住み、山本伝次郎幸綱になった時、三河国八名郡賀茂荘の二千五百石を与えられ、加茂の照山に住み着きました。この人が、山本家第一代で、現在本願寺に墓があります。第二代は、山本帯刀(たてわき)といい、前期を領して賀茂神社の神官をしていました。第三代は山本藤七郎光幸といい鶴巻に住むようになりました。この人には三人の男の子があり、長男を清七、次男を清助、三男を源助といいました。この源助が勘助の幼名です。山本勘助は、明応九年(西暦1500)八月十五日にこの地で生まれました。〈木陰の草より』 平成19年の大河ドラマ「風林火山」で、「山本勘助は富士宮出身」として紹介したので、愛知県豊橋市賀茂小学校区の住民が抗議し、風林火山紀行で「山本晴幸生誕地碑」が紹介されました。 山本勘助は、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦い(現在の長野県長野市)で、自ら編み出した啄木鳥(きつつき)の戦法を上杉謙信に見破られ、命を落としました。1561年9月10日没。 「啄木鳥戦法」とは、キツツキがクチバシで木を叩いたときに驚いて出てくる虫を狙う作戦ですが、実際この戦法がなされたかどうかは疑問視されているようです。 山本勘助の生誕地の場所は、わかりづらく民家の周りに木が密集しています。写真右側の民家前の道を通って来たのですが、とても道が狭いので、対向車が来た時はヒヤヒヤしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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