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カテゴリ:ランナーとしての話
今日から走り始めました。風邪をひいているのですが、走ろう、という気になったタイミングが大切ですね。
長かったぁ~ブランク。 スランプ、という様なものではなく、例の梨状筋症候群のトラブルから走ることへの恐怖心が芽生えてしまったことが原因でしょうね。 2週間程前に例の門前仲町の電気針を施術するセラピストのところに行った時、そろそろ走って、筋肉を鍛えながら治すことを奨められたのですが、その後結構本気に風邪をひいてしまい、その風邪の最中にアメリカのエンジニアと夜通し連絡を取り合うような徹夜のトラブルシュートがあったりで・・・。 アルコールとカフェインと、さらに煙草でも吸い始めて不良になっちゃえ、なんて考えるほど風邪とストレスにまみれた2週間が過ぎました。 絵画館前の銀杏並木を散歩する週末なんて、少し気持ちに潤いのあるひと時もあったのですが、春先のアスリート生活とは程遠い状態でしたねぇ。 振り返ると7月から10月まで、平均すると走行距離は月50~60kmです。 今日は5kmを、キロ6分30秒ペースで、ゆっくり走りました。身体の各部の動きを確かめながら・・・ anakinsolo さんと張り合うつもりだった、筑波マラソンも申し込みはしたのですが、この体調と準備不足で棄権です。 8月末の湯河原ハーフに続いて2度目。 不戦敗。 今から来年のサロマ湖100kmレースまで丁度7ヶ月。 ぼやぼやしていられません。 来年の3月までには200km/月走れる身体に戻したいですねぇ。 さてさて、前のブログでご紹介した村上春樹の「走ることについて語るとき僕の語ること」にこんな一節がありました。 悔しいけど(彼と張り合ってど~するの)これほどランナーの気持ちを見事に表している文は読んだことがありません。ちょっと詩的過ぎるけど、まぁ村上春樹だし・・・ なんだかんだ言っても、この本が元気付けのひとつになったことは間違いないですね。 ------本文から----- 僕らは初秋の日曜日のささやかなレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。 そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。 そんな人生がはたから見て-あるいはずっと高いところから見下ろして-たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。 たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。 効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。 そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。 たとえむなしい行為であったとしても、それほ決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。 そういう効率の悪い営為のサイクルがいつまで現実的に維持できるものか、もちろん僕にもわからない。 でもここまでなんとか飽きずにしつこくやってきたんだもの、とにかく続けられる限りほ続けてみょうじやないかと思う。長距離レースが今ここにある僕を(多かれ少なかれ、良かれ悪しかれ)育て、かたち作ってきたのだ。 それが可能である限りは、僕はこれからも長距離レース的なものごととともに生活を送り、ともに年齢を重ねていくことになるだろう。 それもひとつの―筋が通ったとまでは言わないけれど―人生ではあるだろう、というか、今更ほかに選びようもないではないか。 車のハンドルを握りながらふと、そんなことを考えた。 ------------------------------- 参照終わり---------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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