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テーマ:心の病(7311)
カテゴリ:こころ
最近、「もやもやしたもの」に悩まされている。
もやもや病ではないよ。 自分の体とこころに良いことをすれば、今より楽になれる。 楽しく過ごせる。 Happyになれる。 で、その手段も大体は理解している。 なのに、それができない。 夜更かししたり。 むしゃくしゃしたときの対処法を知っているのに、あえて取らなかったり。 散歩に出ればいいのに、不快になるとわかっているネットの記事を読んだり。 これは、「もやもやしたもの」が、私を変なほうに導いているから。 そう考えることにした。 「もやもやしたもの」 何だかよくわからないけれど、もしかしたら神様なのかもしれない。 神が与えたもうた試練、って書くとちょっとかっこいいけど、うちはキリスト教ではないし。 宗教ってのは、他のいろいろな学問やらなんやらと同じように、人間が「生きやすく」なるために作られたもの、と思っている。 お金目当てのいかがわしいやつもたくさんあるけれど、千年以上かかってもたくさんの人が「利用」している、考え方。 それは「正しいから」とか、「美しいから」とか、そういう理由で生き残ってきたわけじゃない。 便利なんだ。 それに、最近気付いた。 誰だっていろいろ悩みを抱えているし、「失敗したな」と思うことだってあるし、後悔することだってある。 それを自分で抱え込んで、どう処理すればいいのか悩んで、苦しむ。 そんな時、「便利な考え方」がある。それをいろいろ体系立ててきたのが、宗教なのかな、と最近思う。 神が与えたもうた試練。 苦しい状況になって、ともすれば自分を責めたり、大切な家族に恨みをぶつけたりしそうになるとき、あ、これは神が仕掛けた仕掛けなんだ、と信じることができれば、楽になれる。 だって、神だから。神はわるいやつじゃないから。 しかも、自分がしくじったせいじゃなくて、神が仕掛けたことだから、自分を必要以上に責めることもないし。 「神様、ちょっと今回の試練はきついっす」って心の中で泣きを入れても、まあだいじょうぶだし。 自分を否定することなく、他人に矛先を向けることなく、 ああ、これは運命なんだ これが正しい道なんだ これを乗り越えれば、一ついいことがあるんだ と自然に思える、そんな考え方なのかな、って。 でも、今更キリスト教徒になるわけにもいかないし、ムスリムになるのもなかなか大変そうだし、親族の墓の面倒見るのも何かと大変そうだしな。 で、「もやもやしたもの」を想定することにした。 今、何だか調子悪いのは「もやもやしたもの」が何かたくらんでいるから。 「もやもやしたもの」は、悪いやつじゃない。むしろ結構いいやつ。 「もやもやしたもの」は、私のことを割りと気に入ってくれていて、しかも人生経験豊富だから、この仕掛けは私をわなに嵌めるためのものじゃない。 何だかよくわからないけれど、「もやもやしたもの」は私にひとつ経験を積ませたがっているんだ。 じゃあ、まあ、付き合ってやるか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年04月05日 02時27分29秒
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