|
カテゴリ:小説
「奥の部屋にいるよ。礼儀にうるさい人だからね、ちゃんとノックをして入りなさい。」 おじさんはそう言って木の階段を下りていった。 バリアートの西のはずれにあるこじんまりとした茅葺と土壁の家は手入れが行き届いているらしく清潔で、住んでいる人と同様優しくあたたかな印象だった。簡単な装飾のされた木の窓から差し込んだ日差しがよく磨かれた床板に反射して、家全体をほの明るく照らしている。 火災から助け出されたメディチ家の女主人セラチアを世話しているというおじさんの家を訪ねたが、プッチニアを嵌めたあの女狐がこんなところでのうのうとしているとは・・・。生きていたのは情報元としては有難かったが、ビスルで力なく横たわる彼女の事を思うと連理は納得できないものを感じた。
「お入りなさい。」 言われたとおりノックをすると中から冷たく、掠れた声が聞こえた。 窓はきっちりと閉められ部屋の中は薄暗い。中央に木のベット、傍らに丸いテーブルと椅子が2つ置いてあり、女はドアに背を向けた状態で座っていた。あの日は銀色の髪を両サイドを残して結い上げていたが、今日は腰まである髪をすべて下ろしている。 「ギムザから聞いたわ。何?文句でも言いに来たの?」 こちらを振り向きもせず、さきほどおじさんが届けたらしきティーポットからカップにお茶を注いだ。どうやらあの火事で火傷を負ったらしく、手には包帯が巻かれている。 「あなたには色々言いたいことはありますが、今日はそういう用で来たわけではありません。」 「そう。じゃあ、その用とやらを聞きましょうか。」 「フィロウィについて知りたい。彼の研究についても。」 ティーカップを口に運びながら、悪びれる様子もなく女は言った。 「私、何にも知らないわ。」 話は連理に任せると言ったのに、比翼が激高して身を乗り出した。 「そんなはずねぇだろ!お前らがグルってのは分かってんだ!」 「確かに彼とは手を組んでいたわ。でも彼のことは何も知らないの。」 「ではどういう関係か聞かせてください。」 「彼に住む場所と研究室を与え、その他もいろんな便宜をはかってあげる。その代わりに彼は私に役に立つものをくれる。そういう関係よ。」 「いつからその関係を?」 「ここにお嫁に来る前。25のときだったかしら。」 「どこで出会いましたか?」 「・・・ビガプールよ。そんなの、あなたの聞きたい事と関係あるのかしら?」 触れられたくない事があるのか、セラチアは明らかに不機嫌そうな声を出した。 「実験室以外には何を要求されましたか?」 「そうね、ひと月に牛や馬を10頭、人間を2~3人届けたわ。」 「どういう研究をしていたかは知っていますか?」 「いいえ。何も。私は地下へは降りた事がないから。ただ何か恐ろしげなことだとは感じていたけれど。」 「彼が持っていたもの、書物や日記だったり・・・、そういうものが何か残っていませんか?」 「いいえ。もう焼け跡を見て来たんでしょ?自分が逃げる事で精一杯で何も持ち出せなかった。彼のものどころか私の持っていたもの、服も宝石も、全部灰になってしまったのよ。」 全てを無くしてしまったというのに、不思議と女の声には落胆の色がなかった。まだ現実を受け入れ切れてないからなのかもしれない。 「ねぇ、こちらからも質問していいかしら。何故あなたたちは彼のことを調べているの?彼はもう死んだんじゃないの?」 「死んだからこうやって調べているんです。フィロウィが作った薬の解毒薬が欲しい。」 「ふぅん。あなたたちが必死で動いてるということはあの子が飲んだのね?今どうしてるの?」 「・・・仮死状態で眠っています。」 「まあフィロウィはそんな薬も作れたの?15歳くらいかしら、彼女。いいじゃないの、若くて穢れのないまま、ずっと年を取らずに眠り続けるなんて羨ましいわ!」 「何が羨ましいんだよ!お前らのせいでプッチニアはっ・・・」 「やめろ、比翼!」 話に割って入った比翼を止めた。セラチアはまだ何か知っているかもしれない。怒らせてそれを聞くチャンスをふいにするわけにはいかない。 比翼に怒鳴られたセラチアはそれを気にする風も無く、謡うような調子で続けた。 「女はね、早く死ぬのが一番幸せだと思うのよ。若く美しいままの姿を心に残してもらえればそれで十分。長く生きるとねぇ、いっぱい、いっぱい汚れていくの。その汚れが肌に染み付いてどんどん醜くなっていくのよ。」 初めてセラチアが振り向き、その姿に連理と比翼は息を呑んだ。そこにはあの日屋敷で会った美しい女ではなく、顔中に皺を深く刻んだ老婆の姿があった。 「・・・あなたはフィロウィに、若さを保つ薬を望んだのですね?」 「そうよ。あとはねぇ、ほれ薬ぃ。うふふふふふ。」 皺を細かく震わせながら、幼女のような無垢な笑い声を立てた。 「どうしてもねぇ、ここにねぇ、帰ってきたかったの。あなたに会いに。」 そう言いながら老婆は哀切を帯びた声で歌い始め、ティーカップを誰かの手に見立ててそれを相手にくるりくるりと踊り始めた。
明らかに正気を失っている様子のセラチアとの話を諦め、連理と比翼は部屋の外に出た。 「どうだい話は出来たかい?」 「ええ・・・少し。」 「顔は見たかい?前に見た姿と大分違うだろう。焼け出された日から一日に一つずつ歳をとっていくようだった。今は本当の歳よりも老けて見えるよ。」 「本当の歳?」 「私と同じ62歳・・・。実はね、セラチアはこの村の出身で私の幼馴染だったんだ。セラチアの家は特に貧しくてね。貧乏に嫌気がさしたのか彼女がまだ子供のときに母親が家を出ていき、それから父親は酒におぼれるようになった。そしてセラチアが16のときビガプールの娼館に売ったんだ。酒代のためにね。それからどうやったのかは分からないが、30歳のときセラチアはメディチ家当主の妻としてこの村に帰ってきた。そのときから30年あまりの間、ずっと彼女の容姿は変わらなかった。メディチ家の権勢に怯えた村人は噂する事すらしなかったが、一晩で土地を肥やしたのと同様何か怪しげな薬を使ってそうしているというのは薄々皆が感じていたようだ。あの火事の日から彼女が急速に老いる姿を見て、もう魔法の薬が手に入らないということを確信した彼らは次々とこの村を離れていった。」 おじさんは深々とためいきをついた。 「私は昔、彼女が好きだった。それなのに力のない私には彼女を救う事ができなかった。メディチ家当主の妻としてこの村に帰ってきたとき、彼女は私のことをまったく覚えていなかった。・・・きっと全てを忘れてしまいたいようなつらい思いをしたんだろう・・・。今考えればどうしてあの時助けてやれなかったんだろう、一緒に逃げることだって出来たのにと悔やまれてならない。
おじさんに礼を言ってその場を辞した。 「あーあ、結局なんにも分からなかったなぁ。」 「そんなことはないよ。彼女はすごく大事な事を教えてくれた。僕の仮説が正しければ、プッチニアを助ける方法が見つかるかもしれない。」 「え?なんだ、どういうこと?」 「おいおい話す。黄金色の小麦畑亭へ行くぞ。あそこの地下道からビガプールへ飛ぶんだ。」 言い終えるのを待たず、連理は駆け出した。 「ちょ、わけわかんねぇって。待てってば・・・もう!」⇒つづき
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 21, 2009 10:02:19 PM
コメント(0) | コメントを書く
[小説] カテゴリの最新記事
|